時に人は、自らが生きる過程を、道に例えたりします。
あるいは、川の流れに例えることもあるのでしょう。
いままで歩いてきた道から、十字路を曲がって違う道を選んだり。
あるいは、川の流れが巌に押し止められて、蛇行したり。
生きていく過程には、いろんなターニングポイントがあったりします。
そうした道や川の流れが変わるとき、それはどんなときなのだろうと、ふと考えていました。
一番分かりやすいのは、自分自身の意志で、それを変えることでしょうか。
いままで走っていた158号線を曲がって、42号線を走ることにしたり。
ダムをつくって、それまでの川の流れをせき止めたり、あるいは違う方向に川の流れを走らせたり。
自らの意志で、生きる道の行く末を変えることもあるのでしょう。
分かりやすいのは、移動と出会いのような気がします。
自分の意志で、ある場所を訪れる。
あるいは、自分が会いたい人に、会いに行く。
それが、人生という川の流れを変える一つの契機になることは、間違いないと思います。
初めて、私が自分自身で行きたい場所に行ったという記憶があります。
あれは、中学生になった頃だったでしょうか。
当時、名古屋市に新しくできた名古屋港水族館にとても惹かれて、自分一人で行ってみたことを思い出します。
水族館の生きものの中で、コウテイペンギンに惹かれたのです。
幼いころ、私の実家にあった本のなかに、「ペンギンのくに」という南極の写真がたくさん載った図鑑がありました。
小さな私は、その図鑑がとても好きで、四六時中、そこに掲載されていた南極の絶景と、そこに似つかわしくない愛くるしいペンギンの写真を眺めていました。
名古屋港水族館には、そのコウテイペンギンが飼育されているのです。
どういう話の流れだったのかは覚えていないのですが、果たして私は一人でその名古屋港水族館に行くことができました。
私の実家からは、電車に乗って名古屋駅まで出て、そこから地下鉄を乗り換える必要がありました。
一人で電車に乗ることも初めてだった私は、とても緊張してたことを覚えています。
地下鉄の乗り換えも、行き先が二つある路線でしたから、ちゃんと「名古屋港行」に乗らないといけない、と強く念じていたことを思い出します。
なんとか無事にたどり着いた水族館には、開館前から行列ができていました。
私はウォークマンを聴きながら、一人で開館を待っていたことを覚えています。
振り返ってみると、不思議なのですが。
コウテイペンギンを見たくて行ったはずなのに、水族館のなかでのできごとは、あまり覚えていないのです。
いろんな綺麗な魚や、めずらしい海の生き物は、多感な少年にとっては感動的だったはずなのですが、とんと記憶にないのです。
ただ、行きの電車に乗る時のドキドキした感じと、その開館前にウォークマンで何度も同じ曲を聴いていたことは、よく覚えています。
あの日、私は初めて自分の意志で、自分の訪れたい場所を訪れた。
そのことへの感動の方が、大きかったのかもしれません。
そして、これもまた不思議なのですが。
歳を重ねてから、同じような情感を受けるできごとは、自分の意志が占める割合が、減っているように思うのです。
「自分がやりたいからやる」とか、「会いたいから会う」とか、そういう意思ももちろんあるのですが。
何というか、偶然のような、必然というか。
そうせざるを得ない、というか。
それはどこか、強制されているようで、自分の意志がないようで、そうでもないのです。
あぁ、そうなるよね。
そうせざるを得ないよね。
私が、私だから。
と、そんな風に感じることが、多くなってきました。
歳を重ねると、誰しも角が取れて丸くなるといいますが、ただ川が流れるそのままにしていることが、一番なんじゃないかと、そんな気もするのです。
ただ、意志の力と、そんな偶然のような必然は、同じことの裏表のような気もします。
なんだか抽象的な話になってしまいました。
最初の書き出しから、ずいぶんと離れてしまったような気もします。
けれど、
自分の意志の力を信じること。
自分に与えられた川の流れを信じること。
それは、どこか同じことのように、最近はつとに感じるのです。