「コミットメント」とは、覚悟、腹をくくる、決心するといった意味があります。
それは、ある特定の問題や相手に対して、立ち現れるものですが、突き詰めていくと、自分自身の生をどう扱うか、という態度が問われるようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.コミットメントとは、こわれたものを癒す時間があるのを知っていること
相手にコミットメントしているということは、いっしょに長距離を走っていくことです。
カップルが共通の目的をもち、ともに成長しあっていき、完全な調和がとれた状態になるという「目標」をおたがいのために設定したのです。
ということは、対立があったり感情を害しても逃げださずに、それらを癒すために前に進みつづけるということなのです。
コミットメントをしていれば、小さな対立があるたびに、いちいち「これで終わりか」と心配しなくてもいいのです。
対立が起きたときは、それがより大きな幸せやより深い愛を見いだすための通り道なのだということを認めるだけです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.277
2.「コミットメント」の効用
今日のテーマは、「コミットメント」でしょうか。
あまり日常生活では聞きなれない用語ですが、心理学ではとても大切な意味を持ちますので、少し触れてみたいと思います。
覚悟、腹をくくる、決心する
「コミットメント」とは、「覚悟」、「腹をくくる」、あるいは「決心する」といった意味を持ちます。
なんだか、任侠の映画でよく出てきそうな用語ばかりですね笑
しかしこれは、ある問題を考えるうえで、とても重要な役割を持ちます。
たとえば、パートナーとの間の対立やケンカ、あるいは仕事の上での困難など、自分の周りで何らかの問題が起きたとき。
私たちは、どこか他人ごとのように考えたり、自分の責任ではない、ととらえたりします。
もちろん、それが悪いことではないのですが、その状態だと事態が動かなかったり、自分が苦しくなってしまったりします。
「コミットメント」とは、そのできごとに対し、「これは自分のものだ」、「自分は逃げずに向き合う」という態度を「決める」ことです。
そうすることで、自分ができることと、自分ができないことの境界線がはっきりとしてきます。
すると、自分ができることを、淡々と、かつ精一杯しつづけることができるようになります。
それは、「いまを生きる」と言い換えてもいいかもしれません。
その状態には、過去への後悔も、未来への憂慮もありません。
選ぶこと、選び続けること
そうした「コミットメント」において重要なのは、「自分が選んでいる」という感覚です。
一つしかなくて、それしか選べない状態は、「コミットメント」とは異なります。
「これしかない」という状態は、「執着」であり、私たちの心をとても窮屈にします。
「コミットメント」は、それとは真逆の状態です。
選択肢があるなかで、「これ」を「自分が」選んでいる、という感覚。
それは、私たちの心に翼を与え、とても軽くするとともに、何があっても揺るがない力強さをもたらします。
よくパートナーシップでこれじたご相談を、カウンセリングではいただくのですが、この「コミットメント」を得ることが、最初の目的になることが多いです。
腹をくくって、この問題と向き合う。
もちろん、そこにいたるまでは、相手のせいにしたり、愚痴や弱音を吐きだしたり、たくさんのネガティブな感情と向き合う必要があります。
けれども、そうしていくうちに必ず、同じような境地にたどり着くんですよね。
「これは、私の問題だ」、と。
表現は、その人によって違うのですが、その問題が、その人の器にぴったりとはまった、そんな心理になっていきます。
それは、「コミットメント」ができた、という状態といえるのでしょう。
もちろん、「許し」や「手放し」と同じで、「コミットメント」とは、一度したら、もうそれで終わり、というものでもありません。
日々いろんなできごとは起こりますし、それで自分の感情が揺れたりもします。
やっぱりやめた方がいいのかな…こっちの方がいいのかな…
そんな感情が、ときに心をよぎるのかもしれません。
それは、当たり前です。
それで、いいんです。
けれどもその度に、何度も何度も迷いながらも、
「これは、私の問題だ」
「わたしは、この人を選ぶ」
「わたしは、この仕事を選ぶ」
と選び続けること。
その選び続ける、ということが、「コミットメント」の心理なのでしょう。
3.自分の人生を引き受ける、ということ
問題が、自分の人生をつくる
さて、そうした「コミットメント」の心理。
それは、現れ方としては、パートナーシップの問題だったり、仕事のことだったり、家族の何がしかの問題として、でてくるのでしょう。
パートナー、家族、お金、仕事、あるいは健康…さまざまなできごとを通じて、私たちは「コミットメント」を学んでいきます。
しかしそれは、究極的には、一つの「コミットメント」につながっているように思うのです。
その「コミットメント」とは、「自分の人生を自分が引き受ける」、という覚悟といえます。
私たちは、自分で頼んだわけでもないのに、この世に生を受けます。
そして、自分で選んだわけでもない肉体と資質を与えられます。
考えてみれば、そこには自分の意思は何もないわけですよね。
けれども、私たちは毎日息を吸い、吐いている。
そして、この胸の心臓は、鼓動をやめない。
そこに、大きな矛盾や、不条理を感じるのも、当たり前なのかもしれません。
「私が選んだわけじゃないのに」、と。
時に人生で起こる大きな問題は、私たちの奥底に眠る、そんな感情を呼び起こしてくれます。
その問題と向き合うということは、結局のところ、自分自身の人生と向き合うことと、同じなのかもしれません。
「これは、あなたが選んだものでは、ないかもしれない。さて、どうしますか?」
問題は、そんな問いかけをしてくるようです。
生という贈り物
これは、自分の人生だ。
思うようにはままならない、人生かもしれない。
けれども、これが、私の人生だ。
「コミットメント」の究極的なところは、そんな感覚なのかもしれません。
自分が望んだものでは、ないかもしれません。
けれども、人の生とは、当たり前に与えられている権利ではありません。
それは、ある意味で、自分のものではないのかもしれません。
大きなところから、授かったもの。
生とは、権利でも義務でもなく、贈り物です。
だからこそ、その生を自分のものとして引き受け、磨き、輝かせる責任が、私たちにはあるのでしょう。
思うように、なかったかもしれません。
望んだとおりでは、ならなかったかもしれません。
もし、そうだとしても。
あなたのその生は、当たり前の権利でも、義務でもありません。
贈り物です。
自分の生は、自分だけのものじゃない。
その贈り物である生を、どう扱うか。
それを、「思ったようなものじゃないから」といって、ないがしろにするのか。
それとも、「これは自分が望み、授かったものだ」と、その生を輝かせるのか。
「コミットメント」の心理を突きつめていくと、究極的には自分の生とどう向き合うか、という問いかけに、行きつくようです。
迷いに迷って、いいんです。
愚痴を吐いて、いいんです。
葛藤があって、いいんです。
道を間違えて、いいんです。
そんなときのために、カウンセリングがあるんですから。
ただただ、あなたがあなたの生を、主体的に引き受け、輝かせることができることを、私は信じています。
あなたのその生が持つ輝きと、その美しさ、はかなさを、私は知っているからです。
そんなことを、今日も、そしてこれからも、お伝えしていきたいと思っています。
今日は「コミットメント」の心理について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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