大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「親密感」の怖れを乗り越えるためには、怖いままに「親密さ」を保つこと。

人と親密になることは、大きな癒しをもたらします。

しかし、それだけに怖いものです。

そうした「親密感」の心理と、その怖れの緩め方について、お伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.親密さは癒しを生みだす

あなたが相手に近づくほど、二人のあいだにはどんな問題も存在しにくくなります。

親密感によって安全さや心安さが生まれるので、そこに真のコミュニケーションが築かれやすくなるのです。

するとおたがいをとても近くに感じ、古い痛みをおもてに浮きあがらせることも容易になります。

「親密さ」をあらわず"intimacy"という英語は、もともとラテン語の"in"と"timre"、つまり「怖れない」という意味の言葉からきているのです。

 

だれでも「私のことをすべて知られたら、きらわれてしまう」という根源的な怖れをもっています。

つきあいはじめて初期の段階をすぎると、すぐに別れたくなってしまうことがあります。

それは「私のことを本当に知ったら、愛されるはずはない。きっと幻滅するに違いない」という根強い怖れのためなのです。

 

けれども親密さを保ちつづけていくと、最初の怖れを通りぬけるだけの勇気が生まれます。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.283

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2.「親密感」は、すべてを癒す

今日のテーマは、「親密感」でしょうか。

すべてを癒すほどの強烈なものですが、それだけに、そこに至ることが怖いものでもあります。

「親密感」とは、怖れがないこと

「親密感」とは、お互いの境界線がなくなるくらい、ぴったりとつながりを感じている状態のことを指します。

それは、心の心のつながりでもありますし、肉体的なつながりでもあります。

視線を合わせること、手をつなぐこと、抱きしめること、身体を重ねること。

それは、いつかの私たちが、与えられたものなのかもしれません。

しかし、境界線がなくなるということは、非常に怖いものです。

私たちはよく、「自由になりたい」と言いながら、制限があることで安心したりします。

地面があることで、私たちは安心して歩くことができるように。

もし地面がなかったとしたら、私たちはとても怖れを感じるのでしょう。

「親密感」を考える上で、この「怖れ」が同時に出てくるというのは、とても重要な視点です。

「親密さ」をあらわず"intimacy"という英語は、もともとラテン語の"in"と"timre"、つまり「怖れない」という意味の言葉からきているのです。

この英語の「親密感(intimacy)」という言葉の語源なんか聞くと、「ほぇー、言葉ってよくできてるんだな」と思いますよね。

「親密感」とは、「怖れないこと」

それは、「親密感」の本質を言い表しているように感じます。

怖いのは、ほんとうの私を知られること

「親密感」とは、「怖れないこと」。

言い換えると、「親密感」を阻むのは、何がしかの「怖れ」であるといえます。

では、親密になることで、私たちは何を怖れるのでしょうか。

一つには、「ほんとうの私」を知られてしまったら、嫌われる、という怖れでしょうか。

だれでも「私のことをすべて知られたら、きらわれてしまう」という根源的な怖れをもっています。

私たちは、生まれてから、「どうやったら人から愛されるか」という研究をします。

「どの私でいたら、人から好かれるのか」

「どの私を出したら、人から嫌われるのか」

幼いころから思春期まで、特にこうした研究を重ねて、「人に好かれる私」、「人から嫌われない私」を探し、その私を演じていきます。

時にそれがうまくいったとしても、どこかに「本当の私を見せたら、嫌われてしまう」という怖れを抱いていたりします。

それが顕著に出るのが、パートナーシップです。

つきあいはじめて初期の段階をすぎると、すぐに別れたくなってしまうことがあります。

これはほんと、あるあるですよね…

表面上はマンネリ化や、相手の粗が見えてきた、といった形に見えるかもしれません。

けれど、その根っこにあるのは、
「本当の私を見せたら、嫌われてしまう。どうせこの人も、素の私なんか、愛してくれない」
という怖れだったりします。

だから、素の自分を見せるかわりに、「私を愛してるなら、このハードルを跳んでみてよ」という態度を取ったりして、相手を遠ざけようとします。

それくらい、親密になることは、怖いものなのかもしれません。

3.親密さを保つこと

「親密感」に感じる怖れは、神社で感じるそれと似ている

私たちは、大海に浮かぶ離れ小島のように例えられます。

その島と島のあいだには、深い海が横たわっていて、それが私たちの根源的な孤独や寂しさとなります。

これは孤独や寂しさに限った話ではなく、すべての問題を生むのは、他人や世界からの分離であり、へだたりです。

しかし、海の上では離れ離れに見える島々も、海の底まで潜ると、陸続きになってつながっています。

それが、私たちの本質です。

一見、個として孤立しているように見えるけれど、そうではない。

静かな海の底では、つながっている。

「親密感」とは、そうした私たちの本質を思い出させてくれるものです

だからこそ、すべての問題を癒すことができるほどの、癒しともなりえます。

けれども、だからこそ、怖い。

自分の、そして私たちの本質に触れてしまうから。

それは、例えてみるならば、静謐な神社などで感じるような「怖れ」と、近いのかもしれません。

「怖れ」を抱いたまま、親密さを保つ

そうはいっても、その「怖れ」のままでいては、親密になれません。

じゃあ、「怖れ」をなくしたらいいのか、というと、そうでもないのでしょう。

なかなか、それをなくそうとしても、難しいものです。

「怖れ」とは、人の根源的で、本能的に抱くものですから。

「怖れ」を消そうとしなくてもいい。

「怖れ」を抱えたままでいい。

ただ、その「怖れ」を感じる距離感を、保ち続けること。

それが、大切なのだと思います。

「怖れ」を感じる距離で、それを感じたままにしておく、ということ。

逃げだしたり、それをなくそうとしたり、しないこと。

その「怖れ」は、相手もまた感じていることなのでしょうから。

そこで、自分自身に問いかけてみること。

「私は、この人と親密になりたいのだろうか?それとも、分離したいのだろうか?」

その問いかけの答えは、私たちを「怖れ」から守ってくれるように思うのです。

そうしていると、親密さを少しずつ育んでいくことができます。

「親密感」の怖れを乗り越えるためには、「親密さ」を保つこと

どこか禅問答のようにも聞こえますが、一つの真実のようです。

 

今日は「親密感」について、少し掘り下げてみました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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