大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「自立」の極みにいるとき、人には頼れなくても、祈ることができるのかもしれない。

「自立」の特徴として、「人を頼れない」というマインドがあり、それはしんどくて苦しいものです。

その苦しさに光を見る視点と、誰かを頼るためのヒントについてお伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.パートナーシップが死んでしまったように感じたら、天に助けを求めてパートナーに近づこう

人間関係がゆきづまり終わってしまったような気がしたり、ひどく停滞していたり、疲れはててしまうことがあります。

また相手に興味を失ったり、抵抗感が大きすぎて、とても自分の力では乗り越えられそうにないときもあります。

そんなときは、天に助けを求めることができます。

 

それは、あなたの意識のなかで天とつながっている部分であるハイアーセルフに頼んで、少なくとも次の一歩を踏みだすのに十分なエネルギーを与えてもらうことなのです。

 

もしかしたらあなたは、もう与えるものなど何も残っていないという状態なのかもしれません。

慢性的な疲労感がのしかかり、一歩ごとに助けを求めなければならないかもしれません。

それでも大切なのはパートナーに近づいていくことです。

なぜなら、最終的にパートナーのいるところに達したなら、休息とエネルギーの両方が得られるからです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.323

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2.「自立」の停滞感と行き場の無さ

今日のテーマは、何でしょうね…「神頼み」でしょうか。

神さまだろうと、人であろうと、「頼る」ということについて、考えてみたいと思います。

「自立」は辛いよ

私たちの心は、「依存」から「自立」、そして「相互依存」へと成長していきます。

ここで何度も何度も書いている、心の成長プロセスのモデルですね。

そのなかの「自立」における問題の一つが、孤立や孤独です。

「自立」のマインドとは、「自分でなんでもやる、他の人の力を頼らず生きていく」と表現できるでしょうか。

それは、「依存」の時代に感じた苦しみの反動からきています。

「助けてほしかったのに、助けてもらえなかった」
「世話してほしかったのに、そうしてもらえなかった」
「満たしてほしかったのに、満たしてもらえなかった」

そうした辛い経験を経て、人は「もういい、自分でやる!」と「自立」のマインドに振れていきます。

「自立」とは、自分でできることを増やし、自分の足で地に立つという恩恵を与えてくれるものですが、その反面、先に挙げた孤立や孤独といった魔物も呼び寄せます。

その魔物は、「依存」時代に傷ついた分だけ、大きくなります。

あんなにも傷ついたんだから、もし次に「助けてよ」と言っても助けてもらえなかったら、もう二度と立ち直れないかもしれない。

そんな怖いことになるくらいなら、もう全部自分一人でやった方がいい。

そうしていると、ちゃくちゃくと孤立、孤独という魔物は育っていってしまうわけです。

前に進むも孤独、周りに助けを求めるのも怖い…「自立」が極まると、そんな停滞感や空虚感、絶望感に苛まれることがあります。

はい、「自立はつらいよ」の世界線ですね…ほんと。

「自立」の停滞感

「自立」が極まったときの停滞感。

それは自分自身の内面もそうなのですが、周りの人間関係や仕事、あるいは趣味などにおいても、そう感じるようになります。

まるで色のない世界で、動く歩道のような機械仕掛けの道を歩いていて、カタカタと無機質な音を立てているような。

身動きの取れない、出口のない感じ。

ただただ、日々のやらなければならないことだけが、うず高く積まれているような、そんな感じがするのです。

はい、「自立」大好きの私ですので、その感覚はよく分かります笑

今日の引用文の冒頭にもありますが、どこにも行けない停滞感というのは、「自立」に特徴的なものかもしれません

けれど、どうしたらいいのか、分からないんですよね、そういうときって。

孤独や孤立の痛みだとしても、「人に頼る」「誰かとつながる」という選択肢が自分の中にないから、苦しいわけです。

まさに、「自立はつらいよ」です。

3.「自立」の極みにいる人が、最後に頼るもの

抜けだせることを知っているからこそ、しんどい

気づけば、「自立のつらさ」を力説しておりました笑

けれども、この「自立のつらさ」を感じるというのは、ある意味でそこから

これを抜けだした先に、何かがあることを知っている。

だからこそ、しんどいし、つらいと感じる。

「自立」のしんどさとは、逆から見ればそんな風に見ることもできます。

仮に、遊園地の立体迷路みたいなアトラクションがあったとして。

そこに入っていって、さんざん迷って、さんざん歩いて、さんざん行き止まりにぶち当たるのは、しんどいものです。

でもそれは、「出口があることを知っている」からこそ、しんどいと感じるし、それでももがくのでしょう。

もし、出口のない迷路(それが迷路と呼ぶのかは分かりませんが…)があったとしたら、別にそこから抜けだそうとは考えないのではないでしょうか。

まあ、出口もないんだし、ここで暮らすか、みたいな。

停滞したように感じるのも、出口がないように感じるのも、それをしんどいし、つらいと感じるのも。

ほんとうのところ、「もっと流れるはず」「出口はあるはず」ということを知っているからこそ、そう感じるのかもしれません。

私たちは、「自立」の極みにいようとも、そこを抜けだした世界を、その素晴らしさを知っていると思うのです。

そう考えてみると、「自立」のしんどさ、つらさというのは、渡り鳥がコンパスもなしに果てのない距離を飛ぶことができるのと同じように、私たちに備えられた偉大な力のあらわれなのかもしれません。

「自立」を抜けだすために、祈ること

「自立」を抜けだした先は、「相互依存」の世界です。

それは、「自分でできることは自分でする、自分にできないことは人に頼る」という世界線です。

でも、なかなかできないですよね笑

「いまさら…」という諦めであったり、「どうせ助けてくれない」というひねくれだったり、「まだ自分でやれるはず」という頑張りだったり。

なかなか、人に頼ることは難しいものです。

そんな「自立」の極みにいる人が、最後に頼るもの。

それは、人ではないのかもしれません。

人に助けを求めることができなくても、運命や愛、あるいは天といった存在になら、助けを求めることができないでしょうか。

そんなときは、天に助けを求めることができます。

まあ、言ってみれば「神頼み」といえるのでしょう笑

「神頼み」というと、聞こえが悪いかもしれません。

でも、「誰かを頼ることの練習」と捉えれば、少し見方が変わりませんでしょうか。

天でも、神さまでも、パートナーでも。

「頼る」ということに、違いはありません。

天に頼る、というのは、時に「祈り」とも近しいのでしょう。

どうしようもなくなったとき。
自分の力が及ばないと知ったとき。
刀折れ、矢尽きたとき。
それでも世界が変わらないと思い知ったとき。

私も、祈るしかない自分がいることに気づきました。

それは「誰かを頼ることのできる自分」への、小さな、それでいて偉大な一歩だったのかもしれません。

そう考えると、祈ることは、「自立」を癒すための一つの方法のようです。

今日は「自立と頼ること」について、お伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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