大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「べき・ねば」と感じるときは、「本当はそうしたくない」、「誰かにやってほしい」という他人への依存心が隠れている。

「…するべき」と感じることは、私たちの心は疲弊するばかりか、周りの人にもそれを要求するので、関係性を悪化させます。

そうした「べき・ねば」の裏にある心理と、その緩め方についてお伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.「べき」という言葉には、つねに葛藤があらわれている

「……べきである」という言葉には、うまくいかない理由があります。

一方では「私はこうするべきだ」と感じていることにしたがっている自分がいて、もう片方には抵抗している自分がいるのです。

「べき」には要求やニーズが隠されているので、自分が「こうするべきだ」と感じることに近づくほど抵抗が大きくなってしまいます。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.328

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2.「べき・ねば」が奪う人間関係の円滑さ

今日のテーマは、「べき・ねば」でしょうか。

私たちがよく陥る義務感と、それにともなう葛藤について、考えてみます。

「…するべき」には、葛藤が隠れてる

私たちはよく、「…するべき」「…せねば」と感じることがあります。

こうしないといけない、という義務感を感じることですね。

「結婚したんだから、飲み歩きほどほどにするべき」

「男なんだから、たくましくあるべき」

「納期は絶対に守らなければならない」

…などなど、私たちはさまざまな場面で「べき・ねば」を使います。

これは、自分でなんでもやろうとする「自立」が強い人ほど、そう感じる傾向があります。

そうした「べき・ねば」と私たちが感じるとき、そこには葛藤が隠れています。

これ、そうしたことを感じて言葉にしていること自体、葛藤しているともいえますよね。

だって、そこにフォーカスしていない人は、「飲み歩きはほどほどにする」こと自体、意識に上がってこないわけです。

それは、よっぽど飲み歩かない人なのか、あるいは飲み歩いても罪悪感なりを感じない人は、そもそもそんなことを思わないわけです。

「そうするべき」「そうしないといけない」は実は、
「そうしないといけない(けれど、したくないなぁ)」
「そうするべき(だけど、できないんだよな)」
といった内面の葛藤が隠れています。

はい、カッコの中の方が、実は声を大にして言いたいことなのかもしれません。

ほんと、不思議ですよね。人の心って。

「べき・ねば」が禁じている依存心

私たちが感じる、「べき・ねば」。

そう感じるのは、何かをしないといけない、と考えているときです。

そして、そう考えるためには、何らかの基準があります。

先の例でいえば、
「結婚したら、こういう生活をするべき」

「男とは、たくましくあるべき」

「納期は何があっても守らないといけない」

…などなど。

そうした基準がつくられるのには、さまざまな原因がありますが、最も強固な基準をつくるのは、過去の痛みや傷です。

たとえば、過去に納期が遅れて、社内や取引先に大きな迷惑をかけた経験がある人は、「なにがなんでも納期は守るべき!」という基準を持つことは、容易に想像がつくと思います。

あるいは、「あなたって、男らしさが足りないわね」と言われてフラれた男性は、「男らしくないといけない」という基準を持つと思いませんか?

そうした過去の傷や痛みが、「べき・ねば」をつくります。

しかし、その裏側にあるのは、「ほんとは、そんなことしたくないんだ」という心理であり、それはまた、そうした過去の傷や痛みに「痛かったよね」と寄り添ってほしいという依存心でもあります。

しかし、「べき・ねば」が大好きな「自立」的な人は、そうした依存的な自分を認めることを、極度に嫌がります。

はい、イヤですよねぇ…ほんと笑

そして、そうした依存的な自分を禁じていると、周りの他の誰かがその基準を破ることが許せなくなります。

「あれは、おかしい」
「こうするべきなのに」
「ああしないといけないのに」
「自分だって、守っているのに」

…などなど、周りの誰かが、自分自身が設定した基準を破ることが、まったく許せないわけです。

ずいぶんと、息苦しさを感じませんでしょうか…?

そうなんですよね、「べき・ねば」が行き着く先は、自分自身の苦しさもそうなのですが、周りの人との関係性を悪化させます。

3.「べき・ねば」を手放すために

「こうするべきだ」と感じることをずっとしていると、何の満足感も得られないばかりか、疲れ果ててしまいます。

その上、たとえ誰かにそのことを認められたとしても、その喜びを受けとることができません。

「べき・ねば」は、できるだけ手放していくのが、いいのでしょう。

けれども、「『べき・ねば』を手放さないといけない!」という想いは、それ自体が「べき・ねば」になってしまいますよね。

「自立」的な人が「べき・ねば」を手放そうとするときに、よくハマる落とし穴です笑

ミイラ取りがミイラになる、ではないですが、似たようなものですよね。

また、私たちは無意識のレベルで、そうした「べき・ねば」を選んでいることもあります。

「自立」している人ほど、かんばりやさんが多いですから、その義務感に気づいていないことも多いです。

だから、まずはどんな「べき・ねば」を持っているかを、自覚することからスタートするのが、いいのかもしれません。

「しなければならないこと」

「せざるをえないこと」

「すべきこと」

…そのように感じることは、何でしょうか。

自分のなかで強く感じる順番で、ピックアップしてみてはいかがでしょうか。

その上で。

どうして、それが「しなければならないこと」と感じるのでしょうか。

そう感じるようになったきっかけは、ありますでしょうか。

もちろん、ピンとくる場合もあれば、まったく思い当たらない場合もあるでしょう。

それで、いいんです。

ただ、「なんで、これをしないといけないと思ったんだろう?」と自問してみることは、自分の内面と向き合う、非常に有効な方法の一つです。

答えが出ても出なくても、それを問うことに、意味があります。

こうした内面の旅は、すぐに結果が出ないことがほとんどです。

けれども、それを問うことを習慣化していくと、ある日、「あ、そうかもしれない」という気づきが降ってくることがあります。

なぜ、それをしないといけないと、感じるのでしょう。

少しだけでも、時間を取って考えてみる価値のある問いだと思います。

そして、もしそこに思い当たる原因、過去の痛みや傷があったなら。

そこにだけ、目を向けないでください。

その痛みの裏側には、必ず心のあたたかさ、思いやり、そして愛があります。

納期遅延で、迷惑をかけてしまった。

もちろんそれは、しんどい経験かもしれません。

けれども、その痛みにとどまらないでいただきたいのです。

そこに痛みを感じるということは、同僚や取引先といい仕事をして、笑顔でいてほしい、という想いがあったはずです。

あくまでそれは一つの例ですが、どんな痛みにも、その裏側にはあなた自身の素晴らしい愛があります。

そこに、目を向けていただきたいな、と思うのです。

そして、ほんの少しでも、そこに目を向けることができると。

「べき・ねば」がゆるんでいきます。

そして、自分に対して課す「こうしないといけない」がゆるんだ分だけ、周りの人にもそれを強要しなくなります。

結果として、関係性が円滑に回り始めるのです。

今日は、「べき・ねば」の心理とそこに隠れている傷と愛、そして「べき・ねば」の手放し方についてお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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