「依存」の苦しさは、満たされなかった過去を裁き、責めることから抱く「罪悪感」が原因の一つです。
「こうあるべきだった」という過去への判断を手放すことは、その「罪悪感」から自分自身を解放してくれるようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.依存するのは、いまだに過去への判断を抜けだしていないから
私たちが「依存」してしまうのは、過去にだれか、あるいは何かが私たちの望みを満たしてくれるべきだったのに、という判断をくだしているからです。
そこで満たされなかった欲求をいまの状況で満たそうとして、「きっと、だれかが私の望みをかなえてくれるはずだ」と考え、だれかに依存するのです。
ところが、依存はいやな気持を生みだすだけで、おまけに悪循環になります。
「私にはこれが足りない。自分のことなんかきらいだ。もとあれもほしいのに。ああ、こんな自分が余計、いやになる……」。
きりがありません。
過去を裁いているときには、罪悪感もともないます。
絆の欠如、喪失や怖れから生まれてくる欲求は、罪悪感と深くかかわりあっているのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.264
2.「依存」の心理
今日のテーマは、「依存」でしょうか。
もう何度も、このブログでも取り上げている、心の成長プロセスのモデル「依存→自立→相互依存」のうち、一番最初にくる状態です。
この「依存」について、少し深く見てみたいと思います。
「依存」とは、自分に主導権がない状態
誰しもが、最初は「依存」の状態からはじまります。
生まれたばかりの赤子、入学式を終えた小学生、はじめてする恋愛、異動した部署での初日…
さまざまな新しい状況に置かれたとき、人は「依存」の状態になります。
それは、「自分では何もできない、誰かに何とかしてもらいたい」という心理です。
言い換えると、「依存」とは、自分には主導権がない状態といえます。
相手に主導権を渡してしまった、他人軸の状態。
この状態は、何かをしてもらいたいという欲求や、自分には価値がない、という無価値感が強くなります。
そして、「私ばかり」「どうせ私なんて」「だって〇〇だから」といった、被害者マインドが強くなるのも、「依存」の特徴です。
さて、こうした「依存」の状態は、いうまでもなくしんどいものです。
ところが、依存はいやな気持を生みだすだけで、おまけに悪循環になります。
「私にはこれが足りない。自分のことなんかきらいだ。もとあれもほしいのに。ああ、こんな自分が余計、いやになる……」。
はい、こういった心理は、誰でも抱いたことがあるのではないでしょうか。
私も、思い当たる節がありありとあります笑
こうした辛い状態を抜け出すため、人は他人に頼るのをやめようとします。
「誰かに何とかしてもらいたい」から、「何でも自分でやる」へ。
「依存」から「自立」へと、移り変わっていくわけですね。
自立的な人ほど、依存的な自分を隠している
意外と思われるかもしれませんが、カウンセリングで扱うテーマというのは、この「自立」の問題が多いものです。
人に頼れない、孤立する、頑張りすぎて燃え尽きてしまう、任せられない、感情の抑圧、競争と勝ち負けにこだわる…
はい、すべて思い当たる私ですが、あなたはいかがでしょうか笑
「自立」が引き起こす問題は、実にさまざまなものです。
しかし、そうした「自立」的な人でも、こっそりと「依存」の心理を隠していることがあります。
依存的な自分を、切って捨てたように見えて、その実、心の奥底では「どうせ、でも、だって」と拗ねる私を抱えている状態。
「自立の依存」とよばれる状態です。
その状態では、一見「自立」的なので、なんでも自分でやるし、誰かに与えることもできますが、その背後には「ドウセデモダッテ」の私がいるわけです。
だから、なかなか「受けとる」ということが、できなかったりします。
一方的に、犠牲的に与えたり、あるいは「これだけ与えたから、これだけ返してね」という取引の心理が隠れていたりします。
考えてみれば、当たり前なのかもしれません。
「自立」というのは、「依存」時代の辛さや痛みを嫌って、自分でなんとかしようとするわけです。
ということは、「自立」にすごく振れている人というのは、それだけ「依存」時代に辛くて、傷ついているわけです。
超自立に見える人の中には、超依存の自分がいる。
これは、覚えておいて損はない心理だと思います。
私自身も、そうですから笑
「なぜ、あの人はあんなにも人を寄せ付けないのだろう?」
そんなふうに感じる人がいたとして。
その人を理解することに、少しでも役に立つのではないでしょうか。
あぁ、そんなに「自立」するくらいに、辛くてしんどいことが、あったのかもしれないな、と。
3.「依存」の痛みは、罪悪感からやってくる
満たされなかった過去を裁くことから、罪悪感を抱く
さて、そうした「依存」の心理ですが、その辛さというのは、「罪悪感」からくるようです。
「依存」の状態のとき、私たちは誰かに対して、「こうしてほしい」「ああしてほしい」という欲求を持ちます。
しかし、それが叶わなかったときに、傷つくわけですよね。
「思いどおりにならない!」「聞いてたんとちがう!」と。
それは、裏を返せば、「私のこの欲求は、あの人が満たすべき」という判断が隠れています。
その満たされない気持ちを抱いたまま、また別の誰かで満たそうとする。
ずっと、「あの人が私を満たすべきだったのに、そうしなかった。あの人がそうしなかったのは、おかしい。間違っている」という、誰かを責める気持ちとともに。
誰かを責めるとき、私たちは「罪悪感」を抱きます。
以前に「アカウンタビリティ」の項目でも、同じことを書いた気がしますね。
「罪悪感」を抱くと、人は自分を罪深い人として扱い、罰を与えようとしてしまう。
そのため、自分に鞭打ち、自分を幸せから遠ざけようとするわけです。
これが、「依存」の辛さ、しんどさの原因の一つでもあるようです。
問題のデパート、「罪悪感」。
ここでも、出てくるんですねぇ、ほんと…
「こうあるべきだった」という過去の判断を手放す
「依存」のしんどさは、過去の満たされない想いを、誰かにぶつけたり責めたりすることで抱く、「罪悪感」からくる。
じゃあ、「罪悪感」をなくすためには?
ということになりますが、なかなか「罪悪感」をなくすことは難しいのかもしれません。
「罪悪感」とは人が人であるがゆえに抱く感情、とすら言えるものですから。
「罪悪感」をなくそう、というよりも、誰かを責めることを少なくしていくことがいいのでしょう。
あなたの、過去に満たされたなかった想い。
その想いには、ものごとや人が、「こうあるべきだった」「こうしなかったのはおかしい」という判断が、あるのかもしれません。
それを、ゆるめていくこと。
「あの人がこうしてくれなかったのは、何か理由があったのかもしれない」
「あの人は私のほしいものを与えてくれなかったけれど、それは私を愛していないわけではないのかもしれない」
そうしていくと、過去の満たされなかった想いが、自然と満たされていきます。
それが、どれだけ過去のものであっても。
そして、現実が自分の望んだ形と違っていたとしても。
それはとても、不思議なのですけれどね。
蛍光アンダーライン
それはきっと、「許し」あるいは「手放し」とよばれる、人の偉大な心の力なのでしょう。
今日は「依存」の心理について、少し掘り下げてみました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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