大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「判断」してしまう心理の奥には、傷ついた私がいて、そのさらに奥には愛が流れている。

何らかの価値観や観念、ルールにしたがって、ものごとや人に線を引くことを、「判断」とよびます。

その心理の奥には、傷ついた経験や痛みがあるのですが、さらにその奥には、あたたかな愛が流れています。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.美しさ・驚き・よろこびを味わっていないのなら、あなたは何かを判断している

落ちこんでいるときは、だれでも自分が判断をくだしていることに気づいています。

ところが楽しくないときや、みずからの内にも外にも美しさが見えないとき、また新鮮な驚きが失われているときも、私たちは何らかの物事や人を判断しているのです。

それはだれでしょうか。

あなたは何を判断しているのでしょう。

そのために、あなたの本当に楽しい創造的な時間がだいなしになっているのです。

 

今日は新しい選択をしましょう。

あなたは「判断」がほしいですか。

それとも「よろこび」がほしいですか。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.338

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2.「判断」の心理

今日のテーマは「判断」でしょうか。

「ジャッジメント」と呼ばれたりもしますが、その心理について見ていきます。

「判断」の心理とその基準になるもの

心理学における「判断」とは、何らかの基準をもって、正誤善悪を決めることを指します

割と、日常生活で使う「判断」の意味と近いですよね。

私たちが日常生活で使う「判断」では、その基準とは法律、価格、社会常識、多数決…いろんなものがあると思います。

それはいわば「ものさし」であり、線を引くことでもあります。

この行為は、民法に則すると違反になる。
この価格より安かったら、買う。
社会通念上、夜中に騒ぐのは非常識だ。
多くの票を集めた立候補者を、当選とする。
…などなど。

これが、はっきりとした基準であれば、割と分かりやすいものです。

「時速60キロを超える速度で走ると、道路交通法違反になる」、といったように。

けれども、それが社会常識や慣習といったものになると、それは人それぞれに違ってくるものです。

その違いが、対立を引き起こしたりもします。

心理学においての「判断」の基準になるのは、その人その人が持っている価値観、ルール、観念といったものになります。

「年老いた親の面倒を見るべき」

「パートナーには誠実に向き合わないといけない」

「いざというときのために、お金は貯めておくべき」

といった、無数の価値観や観念を、私たちは持っています。

そうしたものを基準に、世界に線を引き、分断しようとするのが、「判断」の心理といえます。

今日の引用文では、「判断」をすることで、驚きや感動、よろこびといったものが、台無しになってしまっているといいます。

それは、「判断」が分離やへだたりを生むことと、つながっています。

私たちは、何かから分離したり、孤独を感じるとき、非常に痛みを感じます。

「判断」は、それをもたらす。

それなのに、なぜ私たちは「判断」をしてしまうのでしょうか。

それを考えるのに、バウムクーヘンのような、私たちの心のひだを順番に見てみたいと思います。

判断する私と、その奥にいる傷ついた私

1層目「いい人の私」

私たちの心を見ていくと、一番外側には「よそ行きの服を着た私」がいます。

初対面の人と会うときの自分、といったら、分かりやすいでしょうか。

どこから見られても、恥ずかしくない私。
誰からも批判されることのない、いい人の私。
誰にも迷惑をかけない私

私たちは、いつもこうした「いい人の私」を無意識に演じているともいえます。

2層目「悪い人の私」

しかし、「いい人」がいれば「悪い人」がいるように、その下には「悪い人の私」がいます。

初めて会う人には、見せないような私、といえます。

初対面の人には、絶対に見せない私。
これを見せたら、嫌われると思っている私。
こんな私は、誰も愛してくれないと思っている私。

そんな「悪い人の私」が、二番目の層にはいます。

いい人がいれば、悪い人もいる。

それ自体にいいも悪いも無く、それは陰陽のように、自然なことなのかもしれません。

さて、その「悪い人の私」から、もう一つ内側に潜ってみます。

3層目「判断する私」

そうすると、次に出てくるのは「判断する私」です。

誰しもそうですが、「ほんとうの私」という単一の存在があるのではなく、無数の表情を持った私がいるのが、当たり前なのでしょう。

とっても愛情深くて、他人想いの私。
めんどくさがりで、怒りっぽい私。
夜中にポテチを食べながら、ダラダラする私。
めっちゃ集中したかと思えば、すぐに飽きる私。

どれかが「ほんとうの私」というよりは、どれもが「ほんとうの私」であるのが、真実に近いように思います。

それを、「この私は、いい人」、「あちらの私は、悪い人」と選り分けている。

この場面では、この自分を出していい。

こっちの場面では、あの自分は出してはダメ。

…などなど、さまざまな場面で「判断する私」が、三番目の層にはいます。

さて、こうした「判断する私」の、さらに奥には、どんな私がいるのでしょうか。

4層目「傷ついた私」

「判断する私」の奥には、「傷ついた私」がいます。

私たちが何らかの「判断」をする裏側には、傷ついた経験や過去の痛みの記憶があります。

これは、私たちが強固な観念やルールをつくるのは、傷ついた経験やしんどい想いをしたとき、ともいえます。

自由気ままに振る舞っていたら、周りから除け者にされてしまった。
ずっと一緒にいたくていつも連絡してたら、重すぎると振られてしまった。
おおらかでマイペースなのに、いつも急き立てられてしつけをされた。

いろんな傷ついた経験から、私たちは観念やルールといったものをつくります。

「この自分ではダメだ」

「この私では愛されない」

そうした基準をもとに、「判断」をするようになります。

この4つ目の層は、痛みの層ともいえます。

私たちは、なかなかこの層を触りたがらず、それを奥に奥に封じ込んでいたりします。

それは、当然ですよね、好きこのんで、イヤな記憶にや痛みに触れようとは思いませんから。

それゆえに、この層がつくる観念やルール、あるいは思い込みといったものは、自分自身では気づきづらいものです。

このように、人の心の層を見ていくと、「判断」をする裏には、いつも傷ついた経験や記憶があります

「判断」の心理を考えるときに、カギになる視点です。

3.傷ついた私を癒す、愛の層

向き合うべきは「判断」した相手ではなく、自分自身の傷や痛み

そうして「判断」を見ていくと、「判断」する対象には、あまり意味がないことが分かります。

自分が「判断」をするものごとや相手は、ただそこに「ある」だけであり、それを白とするのも、黒とするのも、自分自身でしかない。

見る人によっては、それは赤にも黄色にもなりうるのでしょう。

そうだとするなら、何がしかの「判断」をして苦しい、しんどいと感じるときは、その対象にフォーカスしても、何も起こらないわけです。

「他人を変えようとしても、変わらない」という、もう使い古された金言の通りです。

「判断」によって自分が色付けをした相手やものごとが、問題なのではない。

視線を向けるべきは、上で見たような、自分自身の傷であり、痛みです。

そこと向き合い、癒していくと、「判断」をする必要がなくなります。

「連絡しすぎて嫌われたあのときは、しんどかったし辛かった。けれども、それを好きって言う人も、いるかもしれない」、というように。

傷や痛みからの「判断」ではなく、自分らしさや自分の好きな方といった基準で、選べるようになります。

それは、美しさ、驚き、よろこび、あるいは、愛といったものを、選べるようになるといえるかもしれません。

5層目「愛の層」

傷や痛みの層というのは、触れることが怖いものです。

痛みというくらいですから、ネガティブな感情に触れるのも、イヤなものです。

しかし、ずっと同じ感情を感じ続けることができないように、その痛みの層も感じ続けていると、そこを突き抜けていきます。

先ほどの4層目の「傷ついた私」の層を突き抜けると、どうなるか。

最後の5層目は、「愛の層」です。

なぜ、そこで傷ついたのか。

人が傷つくとき、そこには必ず愛があります。

誰かを想うからこそ、人は傷つきもするし、痛みを感じます。

失恋なんかが、いい例ですよね。

それ以外にも、傷ついた経験や記憶というものには、必ず愛が眠っています。

人が傷つくのは、どんなときか。

ふつうに考えると、それは「愛されなかった」「愛を与えてもらえなかった」ときにこそ、人は傷つくと思いがちです。

けれども、その逆なんですよね。

人が最も深く傷つくのは、自分自身の愛が届かなかった、あるいは愛せなくなったことに対しての痛みです。

「こんなにも愛したかったのに、愛せなかった」

「これほど愛したのに、伝わらなかった」

「こんなにも想い続けたのに、もう愛せない」

自分が愛せないとき、人はもっとも強い痛みを感じます。

けれども、傷ついた私の層(痛みの層)を抜けると、そこには「愛の層」が広がっています。

「こんなにも、愛したかったんだね」

「こんなにも、想っていたんだよね」

自分の持っていた、その愛のあたたかさに気づくと、人はとても満たされ、癒されます。

痛みや傷と向き合うというのは、そういった意味です。

その愛の層に触れると、私たちの傷が癒されます。

そして、癒されるほどに、観念やルールがゆるみ、「判断」をしなくてもよくなります。

その結果として、深呼吸をして生きやすくなるわけです。

もちろん、なかなか一人でそこまで向き合うことは難しいこともありますから、ぜひ周りの人やカウンセラーの力を借りてみてください。

「判断」しても、だいじょうぶです。

その奥には、あなたの素晴らしい愛が眠っているのですから

 

今日は、「判断」の心理について、お伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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