大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

誰しもが、自分自身の愛を誇れるために。

誰かを助けたい、世話をしたい、救いたい。

そんな心理の裏側には、誰かを救えなかった、という痛みと罪悪感があります。

そこから行動するよりも、自分の愛の偉大さに目を向けることの大切さについて、お伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.「世話する人」の役割は、自分が破壊的であるという観念からくる

自分がヒーラー(癒す人)の役割をしなければならないと感じている人はだれでも、心理力学的にいって、ある独自の観念をもっています。

その観念とは、ずっと以前に自分が何かの痛みの原因になってしまったとか、とても助けを必要としている人がいたのに自分は助けることができなかったというものです。

 

自分が悪いという観念は誤解なのですが、内なる子供にはそれがわかりません。

子供のときは周囲の破壊的な状況、あるいは病気や死を、みんな自分のせいだと思ってしまうのです。

そこで、のちにヒーラーの役割を身につけるのです。

 

だれでもある時点ではこの役を引き受けるものですが、それは、みずからの罪悪感からきています。

したがって、ときには九十九人の人を助けているのに、たったひとりを助けられなかったことで、まるで全員を助けられなかったかのような罪悪感にさいなまれたりするのです。

身におぼえがある人は、「世話する人」、もしくは「共依存」、「偽りの救済者」の役割をしているというしるしです。

こうした役割は、罪悪感や自分がまちがっているという気持ち、破壊的なところをうめあわせようとして、あなた自身には何も受けとらせません。

 

「世話する人」の役割から真に癒されたヒーラーになるには、大きな一歩を踏みだして、ついに受けとることをはじめる必要があります。

そうするといま助けているよりも、ずっと多くの人々を助けるための強さとヴィジョンをもつことができるのです。

それによって人との関係でも役割から抜けだすことができ、パートナーにもっとも敏感にこたえられると同時に、まわりの世界からより多くの愛と感謝を受けとることができるようになるのです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.217,218

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2.誰かを助けたい人の心理

今日のテーマは、世話をしたがる人、助けたがる人について、でしょうか。

はい、まさに私自身もそのような傾向がありますので、自己紹介のようになりそうです笑

助けたい人は、助けられなかった人

誰かを助けたい、世話をしたい、と感じるのは、とても尊いことです。

人として、美しく、尊いことだと思います。

しかし、その「助けたい」という想いの裏には、「助けられなかった」という痛みが横たわっていることがあります

助けを求めていた大切な人を、助けられなかった。

あるいは、何もできなかった。

それは、いつも怒っていた母親かもしれません。

それは、病気で亡くなったおじいちゃんだったかもしれません。

そして「何もできなかった」、「助けられなかった」という想いは、強烈な罪悪感を引き起こします。

お母さんは不幸せになってしまったのは、私のせいだ。

私の力不足で、おじいちゃんを助けられなかった。

理性で考えれば、そんなことに責任があるはずもないのですが、愛情が強い人ほど、そんなふうに感じてしまうのかもしれません。

その罪を償うため、補償行為として、誰かを助けたがる。

助けたい人の裏側には、こんな心理があるようです。

はい、なんたって、私もその傾向は強いです笑

亡くなった父と母を、助けられなかった。

表層では意識していなくても、心の奥底では、ずっとその想いを抱えているように思います。

身におぼえがある人は、「世話する人」、もしくは「共依存」、「偽りの救済者」の役割をしているというしるしです。

このあたりの文言は、心当たりがありすぎますねぇ…ほんと泣

「身におぼえがある人!」と聞かれたら、両手を挙げてしまいそうです笑

だからといって、そのことが「いい/悪い」というわけでも、ないのですが。

助けたいのは、自分自身

結局のところ、誰かを助けたい人が助けたいのは、自分自身なのかもしれません

困っている人、傷ついている人、深い悲しみをたたえている人を見ると、どうにかしようと感じる人。

そうした人が助けたい人は、いつかの助けられなかった人。

そして、その助けられなかったと感じる、無力な自分を、助けたいのかもしれません。

それは、悪いことでもなんでもないとは思います。

本当の意味で、誰かに手を差しのべられる人になるために、必要なプロセスなのかもしれません。

そうしたプロセスを経て、自分自身を助けたかった、と気づくことができたのなら。

そして、自分自身に手を差しのべることができたのなら、

そのプロセスは、輝きを放ちはじめるのでしょう。

3.誰もが、自分自身の愛を誇れるために

「メシアの悲劇」

「メシアの悲劇」というお話があります。

愛が深く、また大きい人ほど、たった一人を救えないことに、強い罪悪感を抱くんですよね。

その愛によって、多くの人が救われているにもかかわらず、です。

たった一人を救えないことに、気を病んだその人は、その愛を出すことを、やめてしまいます。

「この人を救えないなら、何の意味もない」と。

ときには九十九人の人を助けているのに、たったひとりを助けられなかったことで、まるで全員を助けられなかったかのような罪悪感にさいなまれたりするのです。

引用文にある通りですね。

カウンセリングなんかでも、ときおり出てくるテーマです。

いままで、どれだけの人に、愛を差し向けてきたか。

どれだけの愛を、出し尽くしてきたか。

その偉大さよりも、たった一人の、助けられなかった人に、ずっとフォーカスされている。

もちろん、それがいいとか悪いとか、そんなことをお伝えすることは、ありません。

私がお伝えできるのは、その愛の偉大さ、尊さだけです。

それだけ、救いたかった、助けたかった人が、いらっしゃったんですね、と。

ただ、それだけです。

その愛を、誇れるように。

今日の引用文には、ヒーラーとか、世話をする人とか、そんな言葉がでてきます。

カウンセラーを思い浮かべられる方も、いらっしゃるかもしれません。

けれど、今日のテーマは、そうした仕事をする方に限った話ではないと、私は思います。

ヒーラーとか、カウンセラーなりが特別なのでは、ありません。

ただただ、自分自身の愛を誇れること

そしてその愛を、周りの大切な人に、届けることができること。

一人でも多くの人がそれをできれば、もっとやさしく、美しい社会になるように思うのです。

カウンセリング活動を通じて、そんなことをお伝えしていければ、と思います。

同じような内容ですが、以前にこんな記事を書きました↓

カウンセリング・マインドを、届けたい。 - 大嵜直人のブログ

 

今日は、助けたい人の心理について、お伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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