大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「判断」は自分の「正しさ」にこだわるから起こり、「正しさ」は過去の痛みからつくられる。

「判断(ジャッジメント)」の心理と、そのゆるめ方についてお伝えします。

「判断」の心理とは、自分の「正しさ」で周りを裁いてしまうことですが、それは関係性に悪影響を与えます。

それを無くそうとするよりも、その「正しさ」の裏側にある過去の傷や痛みと向き合うことをおすすめします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.「判断」を捨てれば、自分の判断にはまらずにすむ

自分はまちがっていてもかまわないという気持ちがあれば、ものごとは前に進みつづけます。

反対に「判断」をすると、自分が正しいという感じは得られますが、前には進めません。

「判断」はこう言っているのです。

「私が教わることは何もない。私はすべての答えを知っている。そして停滞している」と。

 

「判断」を捨て、すべての答えを知る必要のないことを受け入れると、あなたに何かを教わる余地ができます。

それによってより広い視野から見ることができるようになり、そこから道が示されることでしょう。

ひとつの強力な自分への宣言はこうです。

 

「私は自分がまちがっていることを望む。もし私が正しいのなら、これを手に入れることになるのだから」

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.187

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2.「自立」は感情を遠ざけてしまう

今日のテーマは、「判断」でしょうか。

「ジャッジメント」ともよばれ、「自立」が過ぎるとあらわれる心理の一つです。

「判断」するのは、自分が正しいと思いたいから

「判断」、または「ジャッジメント」とは、自分の持つ価値観や観念、基準や常識といったもので、人やものごとを裁いてしまう心理のことです。

「挨拶もしないなんて、あの人はおかしい」

「昔にくらべて、世の中がドライになってしまった」

「せっかく手伝っているのに、ありがとうの一言もないなんて」

…などなど、いろんな場面で、「判断」をしてしまうのが、私たちです。

それは言い換えると、「私は、正しい」という表明とも言えます。

引用文にある、「私はすべての答えを知っている」というフレーズなんて、まさにその通りですよね。

「判断」をする心理は、「正しさ」という一本の線を、自分と相手の間に引くイメージです

その線のこちら側は、正しいゾーン。

そして、線の向こう側は、正しくない、間違っているゾーン。

「正しさ」によって、この世界を二つに分けてしまうことを、「判断」とよびます。

さて、そうして世界を分離・分割することが、対立を引き起こすことは、容易に想像ができます。

昨今のコロナ禍でも、社会の分断が問題となりましたよね。

運動会ではないですが、「あか組」「しろ組」と分かれれば、簡単に争いになってしまうようです。

「正しさ」にこだわるのは、自立時代の象徴

「判断」の基準となる、「正しさ」。

それは、自分自身の持つルールであり、譲れない価値観であり、ずっと抱えてきた観念であり、手放せない思い込みであります。

それは、大なり小なり、誰でも持っているものです。

しかし、人は「自立」していく過程で、その「正しさ」に非常にこだわるようになることがあります。

昨日の記事でも見た、「依存→自立→相互依存」という、人の心の成長プロセスのなかの一部ですね。

自分では何もできない状態はしんどいので、誰もが自分で何とかしようとしていきます。

これが、「自立」の一歩目です。

自分でやろうとすることは健全なのですが、それが行き過ぎると、人に頼れない、孤立するといった弊害が出てきてしまいます。

「自立」における、ネガティブな部分ですね。

その「自立」のネガティブな部分の一つとして、「正しさにこだわる」という点があります

自分でなんでもやろうとするわけですから、すべてにおいて、自分のルールを適用したがります。

自分でルールをつくることで、安心するわけです。

だから、このルールが破られることを非常に怖れ、そうならないように全力で阻止しようとします。

これが、「正しさの争い」と呼ばれる状態です。

「正しさ」という尺度をつかって争い、勝ち負けに非常にこだわるようになるわけです。

「自立」をこじらせていたころの私は、周りとの葛藤が絶えませんでした。

「私、絶対に間違ったことは言ってませんから」

と、まさに自立の権化のようなセリフを吐いておりました笑

もちろん、それは自分自身のなかの「正しさ」からすれば、そうだったのかもしれません。

けれども、私の「正しさ」が証明されればされるほどに、私は孤立していきました。

助けを求められなくなりました。

結果、自分一人でもっとがんばらないといけなくなりました。

いわば、終わりのないラットレースを、続けていたようなものでした。

3.「判断」は幸せを遠ざける

私が「正しい」ほどに、相手は「間違っている」

さて、そんな私の個人的な話ではありませんが、「判断」をしても、あまりハッピーなことはないようです。

はい、全然ハッピーじゃなかったですね…(遠い目)

反対に「判断」をすると、自分が正しいという感じは得られますが、前には進めません。

「判断」をすると、自分が正しい、という感じは得られるけれど、停滞する。

まさに、その通りです。

そして、「判断とは、線を引くこと」、と上に書きました。

その線を境にして、コントラストが生まれるわけです。

私が正しければ正しいほど、相手は間違っていることになります

間違っている、とされた相手からすれば、私といると、無力感、無価値観を強く感じてしまいます。

それは、拷問のようなものですよね。

「お前は間違っている」という相手と、いっしょにいたいと感じるでしょうか?

「正しさ」でねじ伏せられた相手に、ずっと従っていきたいと思うでしょうか?

そうではないですよね。

「判断」、ひいては「正しさ」は、あらゆる関係性を悪化させます。

パートナーシップなど、近しい関係性ほど、「判断」したくなるものですし、自分の「正しさ」を証明したくなるものです。

けれども、それが関係性の改善に役立つことは、まずありません。

「正しさと幸せは反比例する」

心にとどめておきたい、金言です。

「判断」の裏側にある、自分の傷を見つめる

判断は正しさを基準にしており、それは幸せを遠ざける。

じゃあ「判断をやめましょう!」としても、なかなかそうはできないものです。

だって、その「正しさ」とは、いままで後生大切にしてきた価値観であり、ルールなわけですから。

それはある意味で、自分自身のアイデンティティになっているものです。

それを捨てるというのは、椿が桜になろうとしたり、ヒラメが鯛になろうとするようなものかもしれません。

椿には椿の、ヒラメにはヒラメの、自分らしさがあるわけです。

それを捨てることは、透明人間のような人になってしまうようなものです。

あ、透明人間はなってみたいかもですが笑

それは冗談ですが、「判断」する裏側には、その人にとって大切なものがある、という見方をしたいと、私は思うわけです。

カウンセリングでも、そんな見方をしています。

「判断」の裏側には、「傷ついた自分」がいます。

何らかの傷ついた経験があったからこそ、「もう二度とこんな思いはしたくない」と、自分の中につくるのが、ルールであり、価値観であり、観念であり、ひいては「正しさ」です。

では、なぜ傷つくのかといえば、その経験がその人のなかで、大切なものに関係するからです。

どうでもいいことに、人は心を動かしません。

これを読んでいる多くの方にとって、中日ドラゴンズの複数の主力選手が、怪我やコロナで登録抹消になったことなど、どうでもいいことなのでしょう。

しかし、私にとっては大変にショックだし、傷つくわけです。

それは、大切なものだから、に他なりません。

少し話がそれてしまいました笑

しかし、自分の中の傷や痛みと向き合うと、自分の大切なものに気づかせてくれるものです。

そしてその向き合った分だけ、自分のルールや「正しさ」を緩めることができます。

そうすると、いつの間にか、「判断」しないようになっていきます。

すると、肩の力を抜いて、自然体で生きられるようになり、結果として周りとの関係性も楽になるわけです。

「判断」も「正しさ」も、それが悪い、というものではありません。

ただ、それにこだわりすぎると、少し生きづらくなる。

けれど、そこから自分の大切なものに、気づかせてくれるものでもあると、私は思うのです。

今日は、「判断」の心理と、そのゆるめ方についてお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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