他人との争いや葛藤といった問題が起こったとき、私たちはその原因を「悪いものだ」と考えてしまいがちです。
しかし、そうした見方は新たな自己否定を生んでしまいます。
その逆に、問題を愛から見る視点について、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.「岩」から血を取ることはできない
「岩」と「沼」が対立して主導権争いになったときは、とても見られたものではありません。
「沼」はより沼らしく依存的になり、「岩」のほうはもっと岩になって、まるで石の壁のようにパートナーをよせつけません。
「岩」はどんなことがあっても、たいしたことじゃないというふりをして、すべての感情を内面に閉じこめます。
ただし火山を爆発させておどろかすときだけは別です。
「沼」は吸血鬼のように、ありとあらゆるこまごましたことを、全部自分の問題にしてしまいます。
感情も注目も愛情も、またどんなエネルギーでも、「岩」から吸いとろうとするのです。
「岩」は対抗してさらにかたくなになり、吸血鬼にむかって「岩から血がとれるものならとってみろ」という態度に出ます。
「岩」によく見られるのは、子供のころにどちらかの親からひからびるまで吸いとられたので、吸血鬼に対して防御力を身につけているのです。
そして引きこもり、隠れ、自分を消してしまう傾向があります。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.361
2.「渇き」と「飢え」
「岩」と「沼」のタイプについては、こちらの記事をご参照ください。
ごくごく単純化するなら、「岩」がストイック、犠牲的、聞き手で、「沼」がヒステリック、感情的、話し手です。
便宜上、そうした分類をしているだけであって、どちらがいい/悪いという話ではありませんし、他人を断定したり判断したりするためのものではありません。
ここは、何度でも注意が必要なところです。
あくまで、目的は「他人と円滑なコミュニケーションを取ること」です。
渇く「岩」と、飢える「沼」
それにしても、今日のテーマは、なんだかぶっそうな言葉が並んでいますね…
「血を取ることはできない」とか「吸血鬼」とか、おおよそこのブログに似つかわしくない言葉が並んでいます笑
「岩」と「沼」、それぞれの痛みを、表現した比喩のようです。
「岩」の傾向がある人は、感情を自分の内面に抑え込み、傷つくほどに一人になろうとします。
何がしかの痛みによって、それの傾向が強くなると、まるで「石壁」のように峻烈で、誰も寄せつけなくなります。
一方で「沼」の傾向がある人は、何でもかんでも自分ごととして捉え、感情を含めたすべての自分のことを、誰かに理解、共感、受容してもらいたいと願います。
それが高じると、まるで「吸血鬼」のように、誰かの愛情や注目、関心、あるいはエネルギーを奪おうとするようになります。
「岩」と「沼」のパートナーの二人がケンカになると、「沼」は相手からすべてのものを奪いとろうという言動や態度を示しますし、「岩」は引きこもり、一寸の隙間もない固い石壁となって、何人たりとも寄せ付けようとしません。
言ってみれば、「岩」は渇きを抱え、「沼」は飢えに苦しむわけです。
そういった視点では、私は完全に「岩」の傾向がありますので、とかく一人になりたがりますし、へだたりと断絶を生んでしまいます。
はい、自覚はあるんです…
でも、しょうがないですよね、すいません。だって、「岩」だもの笑
渇きと飢え、その原因
さて、そうした対立を引き起こす、「岩」の渇きと「沼」の飢え。
なぜそれらが生まれるのかについて、考えてみます。
もちろん、これから書くことが、絶対に正しい、というわけではありません。
一人として同じ人がいないように、人の心はその人それぞれで違いますし、そう見えることが真実とは限りません。
「そういう見方も、できるかもしれない」くらいで読んでいただければ、と思います。
「岩」が渇く原因
まず、「岩」が渇く原因です。
今日の引用文に少しあるようんい、それは「以前に干渉され過ぎた」ということが、一つの原因として考えられます。
親が過干渉やヒステリックな「沼」の傾向あり、それでいつも何かを奪われるような幼少期を過ごした。
その反動で、「もう、ぜったいに奪われないぞ」とかたくなになってしまうわけです。
これは、なんとなく想像がつきますよね。
あまりにも、「沼」に奪われる経験が辛かったから、もう二度とそんなことにはならないように、自分を守っているわけです。
もう一つ考えられるのは、あまりにも悲しい喪失や別離を経験したことで、感情を抑圧するという可能性です。
私は、おそらくそちらの原因の方が強いと思います。
両親との突然の別離が、あまりにも辛く悲しい経験であったがゆえに、そんなことを感じたくない、と感情を抑圧してしまう。
そうすると、周りの人が感情的なのが、苦手になります。
感情的な人を見てしまうと、自分のなかの抑圧した感情が、呼び起こされるような気がするからです。
もう、あんな辛さや悲しさ、寂しさを思い出したくないのに、と。
そうすると、それを見ないように、引きこもって一人になりたがるわけです。
「岩」が渇き、一人になり、引きこもる原因は、そんなことが考えられます。
「沼」が飢える原因
いっぽうで、「沼」が感情的になり、飢える原因を考えてみます。
一つの可能性ですが、「岩」とは逆に、あまり干渉されなかった、という過去の経験が考えられます。
いろんな事情で、あまり自分のことに注目してもらえなかった。
なかなか、自分のことを見てもえらえなかった。
あるいは、自分の感じていることを、共感したり受け入れたりしてもらえなかった。
幼少期にそうした経験をするのは、本当にしんどいものです。
世界の中で自分の存在を認めてもらえないような、私は生きていてもいいのかな、とそんな感じさえするかもしれません。
そうした悲しい、苦しい経験をしたことにより、自分のことが理解されないと、飢えを感じるようになります。
だからこそ、自分の感情を話すこと、理解してもらうこと、時にヒステリックなほどに、それを伝えることに躍起になったりもするわけです。
「沼」の飢えは、自分の生存権を懸けたほどの、悲痛なものといえるかもしれません。
そうした原因が「悪い」わけでは、全く無い
「岩」の渇きと、「沼」の飢え。
それぞれの原因を見てきましたが、「どちらかだけ」というよりは、程度の差はあれど、両方当てはまる部分があるのではないでしょうか。
私も「岩」傾向が強いですが、「沼」の飢えが全く無いかといえば、そうではない気がします。
人の心がそうであるように、まだら色、グラデーションのようなものなのでしょう。
そして、そうした原因があって「岩」や「沼」になったとして。
それが、「悪い」ことでもなんでもない、ということは、強くお伝えしたいと思います。
往々にして、こうした原因を探ったり、自分の内面と向き合っていくと、「だから、うまくいかないんだ」という思考になったりしますが、それは新しい自己否定を生むだけです。
あなたは何も悪くないし、誰も何も悪くない。
ただ、そのときそうせざるを得なかっただけ。
そこに善悪も正誤も、ない。
ただ、「そうだったんだな」「そうかもしれないな」と思うだけで、いいんだと思います。
あなたが「岩」であることが、あなたが「沼」であることが、悪いわけでは、決してありません。
あなたのどんな要素も、大切なあなたの一部分です。
それは、愛でこそすれ、否定すべきものではありません。
3.愛からの視点を持つこと
さて、そうはいっても、「岩」と「沼」のあいだで争いが起きたりするのは、避けたいものです。
パートナーシップにおいても、主導権争いをなんとか解決したいものです。
だとすれば、どうしたらいいのでしょうか。
「岩」に「岩をやめなさい」といったり、「沼」に「沼をやめなさい」というのは、何の解決策でもありません。
それは、その人のアイデンティティを否定するようなことだからです。
自分の資質を否定して、新たにアイデンティティを構築したところで、そのギャップに苦しむだけです。
自己否定からは、何も生まれません。
そうではなくて、真実はその真逆です。
「岩」が「岩」であること、「沼」が「沼」であることに、価値を見ることが真実です。
「岩」は一人になり、血を吸われると死んでしまう、と思っています。
もちろんそれは、先に見たように、過去に血を吸われつくした(干渉されつくした)経験があったからかもしれません。
けれども、実のところ、干渉されつくした経験自体が、しんどいのではないかもしれません。
干渉してきた大切な人が、笑顔にならなかったことに、人は傷つきます。
「助けられなかった」、あるいは「笑顔にできなかった」と。
これは、多くの「岩」が持っている後悔であり、罪悪感です。
けれども、それは真実ではありません。
もしかしたら、その大切な人は、笑顔に見えなかったかもしれないけれど。
あなたがその方を笑顔にしたかったこと、そこにあたたかな愛情があったことは、何も変わらないんです。
そこに、価値を見るんです。
「沼」は、自分のすべての感情を、分かってもらえないと死んでしまう、と思っています。
もちろんそれは、先に見たように、誰にも分ってもらえなかったという、凍えるような経験があったからかもしれません。
けれども、実のところ、干渉されなかった経験自体が、しんどいのではないかもしれません。
自分に無関心だった大切な人が、幸せそうでなかったことに、人は傷つきます。
「何もできなかった」、あるいは「自分に愛される価値がなかった」と。
これは、多くの「沼」が持っている葛藤であり、無力感です。
けれども、それは真実ではありません。
もしかしたら、その大切な人は、幸せそうに見えなかったかもしれないけれど。
「何もできなかった」と感じるくらい、その人を幸せにしたかったこと、その愛情は尊いものです。
そこに、価値を見るんです。
「岩」であることが悪いわけでもないし、「沼」であることが悪いわけでもない。
「岩」が「岩」に、「沼」が「沼」になったのには、そもそも根底に大切な誰かを想う愛があったからこそ、です。
そこに、フォーカスし続けること。
もちろん、「そんなことない」「きれいごとだ」と、自分の中で騒ぐ声があるかもしれません。
それでも、いいんです。
どんなに疑っても、葛藤しても、悶えても。
そこに、あたたかな愛があったことには、変わりはないわけですから。
さて、そのようにして自分の「岩」や「沼」の資質を見ることができると。
それは、必ず自分の周りの人や世界にも映し出されます。
「あぁ、この人が『沼』なのは、こんなにも誰かを想う愛があるからなんだな」
「こんなにも固い『岩』なのは、それほど誰かを想ってきた裏返しなんだな」
そう見ることができたなら、もうそこに主導権争いや、葛藤は存在できなくなります。
それを、「許し」と言ったり、「自己肯定」「自己受容」と呼んだりもするのでしょうけれど、どんな呼び方をしてもいいんです。
ただ、自分と、世界を、そのままに受け入れることができれば。
真実は、きっとそこにあります。
今日は、「岩」や「沼」の資質から、自己受容についてお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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