大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

心理学は、他人を分析したり断定したりするのに使うのではなく、自分の生き方にフィードバックするために使うためのもの。

心理学に限らず、いろんなタイプ論・類型論があります。

それは、他人を分析したり断定したりするためにあるのではなく、自分の生き方にフィードバックするために使うためのものです。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.コミュニケーションには「沼」タイプと「岩」タイプがある

あらゆる人間関係のコミュニケーションには、二つのまったく異なったスタイルがあります。

たとえば「沼」タイプの人は感情的で、コミュニケーションを自分にあてつけられたものに思いこみがちです。

それに対して「岩」タイプの人はなにごとも一般化し、自分を切りはなして抽象的に見る傾向があります。

「岩」はストイック(禁欲的)、「沼」はヒステリックになりがちです。

「岩」は自己を否定して犠牲になる傾向があり、「沼」はわがままで自分を甘やかす傾向にあります。

「沼」は自然な話し手であり、「岩」は自然な聞き手です。

 

「岩」はいつも「沼」に恋をしてしまいます。

それは「沼」からかもしだされるしなやかさと、自由なセクシュアリティにひかれるのです。

そのいっぽうで「岩」には多くのルールがあり、ときに池の水を浄化しすぎてスイレンを枯らしてしまいます。

「沼」はもちろんいつも「岩」のもつ自身と、自制的なところに魅力を感じます。

少なくとも最初の数分間はそうです。

それをすぎると、競争がはじまります。

「岩」は生まれながらの「与える人」であり、「沼」は生まれながらの「受けとる人」です。

「沼」は過敏で傷つきやすく、「岩」は鈍感で傷つかないように見えるでしょう。

 

重要なのは、このコミュニケーションのスタイルを理解することです。

なぜならこのスタイルの違いが主導権争いや競争のもとになり、<デッドゾーン>にまでもちこまれるからです。

おたがいが「役割」を演じているのだと認識すると、「沼」はしっかりしはじめ、「岩」はゆるむことができます。

競争を手放して、「沼」がその感情を自然な水路に流していけば、「岩」から泉がわきだしてきます。

すると水が流れる肥沃な土地が生まれます。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.350

f:id:kappou_oosaki:20220103095718j:plain

2.タイプ論に「断定」は禁物

今日のテーマは、コミュニケーションの取り方のモデル、でしょうか。

「沼」と「岩」という象徴を使って、それぞれのタイプの人の特徴を表しているのが、今日の引用文です。

しかし、今日ここで私がお伝えしたいのは、あなたが「沼」なのか「岩」なのか、ということではありません。

タイプ論は、他人を「断定」することに使わない

今日の部分の引用をしておいて何なのですが、こうしたタイプ論・類型論を目にするときに、注意したい点があります。

それは、こうしたタイプや類型のカタチに、すべてを当てはめようとすることは危険だ、ということです。

もちろん、今日の引用部には、「そうだなぁ」と納得できる部分がたくさんあります。

私自身は、「岩」タイプに近いと思います。

自制的で、自己否定と犠牲の傾向が強く、いつも聞く側で、かつ生粋の「与えたがり」です笑

しかし、そのように自分自身の内省に使うのはいいのですが、これを他人に適用しようとすると、ある種の危うさが生まれます。

「あの人は、『沼』だから」というように、いわばレッテルを貼ることは、世界の分断であり、新たな対立を生みます。

これは、ある種の危うさを孕む考え方です。

たとえば、タイプ論の一つに、「世代論」というものがあります。

「Z世代」「ゆとり世代」「団塊の世代」というように、さまざまな年代で区切る呼び名が、さも当然のように使われたりします。

マーケティングなどで便宜上使うのであればまだしも、それを何らかの価値判断に使うのは、私は危険だと感じます。

そうした議論は、非常に全体主義的なものに近くなるからです。

血液型でのタイプ論も、同じように感じます。

それを他人を「断定」することに使ってしまうと、分断とへだたりしか生みません。

大切なのは、タイプでも世代でもなく、「その人そのもの」であるはずです。

「〇〇さん」という個別の、ただ一人の人と、どう向き合うか。

そこにこそ、つながりと親密感は生まれないように思います。

心理学は、自分にフィードバックするために使う

これは、心理学においても同じことが言えます。

この「やさしい心理学」のカテゴリーをはじめるときに、そのようなことを書きました。

oosakinaoto.com

心理学を学ぶと、その学んだことを自分の周りの人に、当てはめたくなります。

「あいつは、母親と癒着している」とか、

「あの人も、もっと正しさを手放せばいいのに」とか。

はい、恥ずかしながら、私自身もそうでした。

けれども、そうしたことをしても、自分が楽に生きられるようになるかといえば、決してそうではありません。

その人の問題は、その人の問題であり、私がどうこうできることではないからです。

いえ、そもそも、それを「問題」にしているのは、私自身なのかもしれません。

そして、そうしたときに、自分の周りの人を見る視線というのは、まったくやさしくありません。

そのようにして使うと、心理学はとてもイヤらしく下品なものに堕します。

これは、私がいつも自戒しようと心がけていることでもあります。

ほんとうに、気づかぬうちに、やってしまうんですよね。

にんげんだもの、しょうがいなんですけれどもね笑

 

けれども、そうではなくて、心理学を自分自身の内面にフィードバックするために使うと、それは黄金の金脈になります。

自分の心を、内面を、深く知るために使う。

その内面に、無限の広がりと、そして無数の感情があり、そしてその根底には愛があることに、何度でも気づく。

そして、それを他人とつながるために、架け橋をかけるために、使う。

そうすることができたとき、心理学は無限の可能性をもった、希望になります。

今日の「岩」「沼」論も、あるいは他のタイプ論も、同じです。

もちろん、それはすぐれた類型論ではあります。

けれども、それは他人を分析したり、断定したりするために使うのでは、ありません。

あくまで、自分自身の生き方にフィードバックをするために使う。

その上で、どうやったら、豊かなコミュニケーションを取れるのかを、考えるための参考にする。

それが、大前提だと私は思います。

3.与えられた役割を演じているだけ

さて、だいぶ前置きが長くなりました。

その前提の上で、今日の分類は秀逸ですよね。

「沼」と「岩」、ほんとうによく言い表しているように感じます。

私自身は「岩」の傾向が非常に強いのですが、ここなんか、非常に当てはまります。

そのいっぽうで「岩」には多くのルールがあり、ときに池の水を浄化しすぎてスイレンを枯らしてしまいます。

いやぁ、よく枯らしてしまいます笑

以前に、ある方から、「濁を受け入れなさい」と教えをいただいたことがあります。

あまりにも澄み過ぎた水には、生命は育ちません。

大阪湾でしたでしょうか、あまりにも水を浄化しすぎて、魚がいなくなったというニュースが、以前にありましたよね。

よどみ、濁りがあるからこそ、命は育まれる。

「濁」を受け入れ、美しく使いなさい、と。

そして、「濁」を与えてくれるのが、今日の引用文でいうところの「沼」の人たちなのでしょう。

そう考えると、私たちはただ、完全な脚本のなかで、与えられた役割を演じているだけのようにも思えてきます。

舞台のなかで登場する人物に、「良い」も「悪い」もないように。

ただ、どの役がなくても、その舞台は成立しない。

自分と、相手と。

ただ、その役割があるだけ。

その役割を知り、どうやったらこの脚本が描く舞台を、美しく演じることができるのか。

それを考えることが、豊かなコミュニケーションを考える一歩目になるのでしょう。

 

今日は、心理学におけるタイプ論の注意点と、それを踏まえた上でのコミュニケーションの考え方について、お伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

〇大嵜直人のカウンセリングの詳細はこちらからどうぞ。

※ただいま満席となっております。
※次回11月度の募集は10月25日(火)に開始の予定となります。

〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。