心理学に限らず、いろんなタイプ論・類型論があります。
それは、他人を分析したり断定したりするためにあるのではなく、自分の生き方にフィードバックするために使うためのものです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.コミュニケーションには「沼」タイプと「岩」タイプがある
あらゆる人間関係のコミュニケーションには、二つのまったく異なったスタイルがあります。
たとえば「沼」タイプの人は感情的で、コミュニケーションを自分にあてつけられたものに思いこみがちです。
それに対して「岩」タイプの人はなにごとも一般化し、自分を切りはなして抽象的に見る傾向があります。
「岩」はストイック(禁欲的)、「沼」はヒステリックになりがちです。
「岩」は自己を否定して犠牲になる傾向があり、「沼」はわがままで自分を甘やかす傾向にあります。
「沼」は自然な話し手であり、「岩」は自然な聞き手です。
「岩」はいつも「沼」に恋をしてしまいます。
それは「沼」からかもしだされるしなやかさと、自由なセクシュアリティにひかれるのです。
そのいっぽうで「岩」には多くのルールがあり、ときに池の水を浄化しすぎてスイレンを枯らしてしまいます。
「沼」はもちろんいつも「岩」のもつ自身と、自制的なところに魅力を感じます。
少なくとも最初の数分間はそうです。
それをすぎると、競争がはじまります。
「岩」は生まれながらの「与える人」であり、「沼」は生まれながらの「受けとる人」です。
「沼」は過敏で傷つきやすく、「岩」は鈍感で傷つかないように見えるでしょう。
重要なのは、このコミュニケーションのスタイルを理解することです。
なぜならこのスタイルの違いが主導権争いや競争のもとになり、<デッドゾーン>にまでもちこまれるからです。
おたがいが「役割」を演じているのだと認識すると、「沼」はしっかりしはじめ、「岩」はゆるむことができます。
競争を手放して、「沼」がその感情を自然な水路に流していけば、「岩」から泉がわきだしてきます。
すると水が流れる肥沃な土地が生まれます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.350
2.タイプ論に「断定」は禁物
今日のテーマは、コミュニケーションの取り方のモデル、でしょうか。
「沼」と「岩」という象徴を使って、それぞれのタイプの人の特徴を表しているのが、今日の引用文です。
しかし、今日ここで私がお伝えしたいのは、あなたが「沼」なのか「岩」なのか、ということではありません。
タイプ論は、他人を「断定」することに使わない
今日の部分の引用をしておいて何なのですが、こうしたタイプ論・類型論を目にするときに、注意したい点があります。
それは、こうしたタイプや類型のカタチに、すべてを当てはめようとすることは危険だ、ということです。
もちろん、今日の引用部には、「そうだなぁ」と納得できる部分がたくさんあります。
私自身は、「岩」タイプに近いと思います。
自制的で、自己否定と犠牲の傾向が強く、いつも聞く側で、かつ生粋の「与えたがり」です笑
しかし、そのように自分自身の内省に使うのはいいのですが、これを他人に適用しようとすると、ある種の危うさが生まれます。
「あの人は、『沼』だから」というように、いわばレッテルを貼ることは、世界の分断であり、新たな対立を生みます。
これは、ある種の危うさを孕む考え方です。
たとえば、タイプ論の一つに、「世代論」というものがあります。
「Z世代」「ゆとり世代」「団塊の世代」というように、さまざまな年代で区切る呼び名が、さも当然のように使われたりします。
マーケティングなどで便宜上使うのであればまだしも、それを何らかの価値判断に使うのは、私は危険だと感じます。
そうした議論は、非常に全体主義的なものに近くなるからです。
血液型でのタイプ論も、同じように感じます。
それを他人を「断定」することに使ってしまうと、分断とへだたりしか生みません。
大切なのは、タイプでも世代でもなく、「その人そのもの」であるはずです。
「〇〇さん」という個別の、ただ一人の人と、どう向き合うか。
そこにこそ、つながりと親密感は生まれないように思います。
心理学は、自分にフィードバックするために使う
これは、心理学においても同じことが言えます。
この「やさしい心理学」のカテゴリーをはじめるときに、そのようなことを書きました。
心理学を学ぶと、その学んだことを自分の周りの人に、当てはめたくなります。
「あいつは、母親と癒着している」とか、
「あの人も、もっと正しさを手放せばいいのに」とか。
はい、恥ずかしながら、私自身もそうでした。
けれども、そうしたことをしても、自分が楽に生きられるようになるかといえば、決してそうではありません。
その人の問題は、その人の問題であり、私がどうこうできることではないからです。
いえ、そもそも、それを「問題」にしているのは、私自身なのかもしれません。
そして、そうしたときに、自分の周りの人を見る視線というのは、まったくやさしくありません。
そのようにして使うと、心理学はとてもイヤらしく下品なものに堕します。
これは、私がいつも自戒しようと心がけていることでもあります。
ほんとうに、気づかぬうちに、やってしまうんですよね。
にんげんだもの、しょうがいなんですけれどもね笑
けれども、そうではなくて、心理学を自分自身の内面にフィードバックするために使うと、それは黄金の金脈になります。
自分の心を、内面を、深く知るために使う。
その内面に、無限の広がりと、そして無数の感情があり、そしてその根底には愛があることに、何度でも気づく。
そして、それを他人とつながるために、架け橋をかけるために、使う。
そうすることができたとき、心理学は無限の可能性をもった、希望になります。
今日の「岩」「沼」論も、あるいは他のタイプ論も、同じです。
もちろん、それはすぐれた類型論ではあります。
けれども、それは他人を分析したり、断定したりするために使うのでは、ありません。
あくまで、自分自身の生き方にフィードバックをするために使う。
その上で、どうやったら、豊かなコミュニケーションを取れるのかを、考えるための参考にする。
それが、大前提だと私は思います。
3.与えられた役割を演じているだけ
さて、だいぶ前置きが長くなりました。
その前提の上で、今日の分類は秀逸ですよね。
「沼」と「岩」、ほんとうによく言い表しているように感じます。
私自身は「岩」の傾向が非常に強いのですが、ここなんか、非常に当てはまります。
そのいっぽうで「岩」には多くのルールがあり、ときに池の水を浄化しすぎてスイレンを枯らしてしまいます。
いやぁ、よく枯らしてしまいます笑
以前に、ある方から、「濁を受け入れなさい」と教えをいただいたことがあります。
あまりにも澄み過ぎた水には、生命は育ちません。
大阪湾でしたでしょうか、あまりにも水を浄化しすぎて、魚がいなくなったというニュースが、以前にありましたよね。
よどみ、濁りがあるからこそ、命は育まれる。
「濁」を受け入れ、美しく使いなさい、と。
そして、「濁」を与えてくれるのが、今日の引用文でいうところの「沼」の人たちなのでしょう。
そう考えると、私たちはただ、完全な脚本のなかで、与えられた役割を演じているだけのようにも思えてきます。
舞台のなかで登場する人物に、「良い」も「悪い」もないように。
ただ、どの役がなくても、その舞台は成立しない。
自分と、相手と。
ただ、その役割があるだけ。
その役割を知り、どうやったらこの脚本が描く舞台を、美しく演じることができるのか。
それを考えることが、豊かなコミュニケーションを考える一歩目になるのでしょう。
今日は、心理学におけるタイプ論の注意点と、それを踏まえた上でのコミュニケーションの考え方について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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