大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

自分のなかの「当たり前」に価値を認めることが、他人とのコミュニケーションを円滑にする。

私たちは、自分が当たり前にできることには、なかなか価値を感じることができません。

しかし、そこに価値を認めることができると、他人とコミュニケーションにも大きな恩恵を与えてくれるようです。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.自分のことでいっぱいだと、パートナーとのコミュニケーションを失う

これは大切なことです。

おたがいのことをコミュニケーションしあわないで自分のことばかり考えていると、関係はこわれてしまいます。

人間関係はあなたのためだけに存在しているのではありません。

おたがいのためにあるのです。

 

「岩」と「沼」の二人はよくこんな問題におちいります。

「沼」タイプのほうは生まれつきコミュニケーション上手で、たいていのものごとを個人的にとらえ、自分自身のことや気持ちについて話します。

いっぽう「岩」タイプのほうは、自分の感情とあまりよくつながっていません。

ストイックで、ものごとから自分自身を引きはなす傾向があります。

「岩」はひとつの関係で三度くらい、重要な個人的な感情について分かちあうことがあります。

そして、合計してもだいたい七回ほどでコミュニケーションをやめてしまうのです。

でも、こういうときこそ「岩」が心を開き、自分が体験していることを語る貴重な機会なのです。

 

ときに「沼」はその時点で自分のことしか目にはいらず、「岩」の個人的な分かちあいを自分への攻撃と受けとめてしまいます。

そして、ふたたび自分が舞台の中心をとり返そうとするのです。

もし「沼」がここでコミュニケーションの主導権をうばい、ストーリーを自分の手に戻そうとすれば、重要な機会を失ってしまうことになります。

 

「沼」は、このようなめったにない機会に気づくことが大事です。

そのとき「岩」はいつにない冒険をして、心のはね橋をおろし、深い内面的な感情をあらわしているのです。

そこで「沼」が話を聞き、「岩」のコミュニケーションをうまく援助してあげることができれば、「岩」はまた次の冒険をしていくのです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.352,353

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2.コミュニケーションという「冒険」

今日は、パートナーシップのなかでのコミュニケーション論でしょうか。

「岩」と「沼」のタイプについては、こちらの記事をご参照ください。

ごくごく単純化するなら、「岩」がストイック、犠牲的、聞き手で、「沼」がヒステリック、感情的、話し手です。

便宜上、そうした分類をしているだけであって、どちらがいい/悪いという話ではありません。

また、上に挙げた記事で書いたように、「あの人は『岩』だから」というように、他人を断定するために使うためのものでもありません。

すべては、周りの人と心のこもったコミュニケーションを取り、つながりを感じ、そして豊かに生きられるようになることが、一番大切なことです。

それは、何度でもお伝えしておきたいことです。

 

さて、その上でなのですが。

私自身は「岩」のタイプなので、自分の感情を感じることが苦手で、かつそれを相手に伝えることは、二重の意味で苦手です。

今日の引用文であるように、どこかでものごとから自分を切り離して考える傾向があります。

なので、自分のことを話したがらず、聞く側に回ることが多いものです。

そうした傾向のある人にとって、自分の感情について分かちあうコミュニケーションを取ることは、ある種の「冒険」なのですよね。

どこか、未開の土地を探検するような、あるいは、何が出てくるか分からないお化け屋敷を歩くような…そんな怖さがあります。

なので、自分にとって抑えられない感情があったり、あるいはどうしても伝えたいなにがあったときに、ようやくそれを他人に話すことができたりします。

自分の感情をコミュニケーションすること自体が、「冒険」なわけです。

 

しかし、「話す」「伝える」ということは、「聞く」「受けとめる」という相手があって、初めて成立します。

そうした相手がいなかったり、あるいは相手が「聞く」モードになってくれないと、「冒険」をした側は、非常に傷つくわけです。

そして、ここに悲劇があるのですが、「岩」のタイプの人の周りにいるのは、多くの場合、「沼」タイプの人なわけです。

そりゃあ、当然ですよね。

普段は「聞き手」なわけですから。

凸凹が合うように、ぴたりと合うわけです。

ところが、「岩」が内面的な感情をさらす必要性に迫られたとき、周りの「沼」はそれを聞き慣れていないわけですから、違和感を覚えたり、あるいはそれを「攻撃」のように受け取ってしまったりすることがあります。

そうすると、「岩」はますます固く心を閉じ、「沼」はますます相手が遠く離れていったように感じてしまいます。

自分の感情を伝える、というコミュニケーションひとつをとっても、これだけの困難があるわけです。

3.自分の「当たり前」に価値を見ること

さて、こうしたコミュニケーションの不具合があったとき、どこにフォーカスしていけばいいのでしょうか。

その答えの一つは、「自分の価値を見続けること」です。

先ほどの例でいえば、「自分の感情を表現し、伝えること」が、私を含む「岩」な人々にとっては、何十段の跳び箱を跳ぶくらい、困難なことなわけです。

しかし、それを「誰もができて当たり前なこと」と見てしまうと、そこにコミュニケーションギャップが生まれます。

自分の感情を、感じること。
自分が何を感じているか、何が心地よいのか、何が不快なのか、分かっていること。
そして、それを言葉で表現できること。
そして、それを誰かに伝えることができること。

「沼」の傾向がある人にとっては、息を吐くように当たり前にできることかもしれません。

けれども、決してそれは、見る人から見たら当たり前ではないわけなんですよね。

「え?そんなことを、日常的にやっているの?す、すごい…」

と感じるくらいのことなのかもしれません。

大切なのは、自分がしていることの価値を、どれだけ自分自身が認めているかです。

それを「そんなの、できて当たり前」と思うと、他人に要らぬ期待をしてしまいますし、それが叶わなかったときに傷ついたりもします。

呼吸をするようにしていることに、その人の最も偉大な才能が宿っている、といいます。

もしそうであるならば、「沼」の傾向がある人は、自分が感情とつながっていて、それをきちんと周りの人に伝えて、コミュニケーションできることの価値を、見続けることが大切です。

そこに価値を見ることができれば、相手が同じことをしたときに、
「あ、自分の感じていることを伝えてきてくれた。すごいことだな」
と見ることができるようになります。

そこに価値を感じていなかったり、あるいは自己否定が混じっていたりすると、その逆に感じてしまいがちです。

もちろんそれは、「岩」の傾向がある人にとっても、同じです。

普段、自分が聞き役に回っていることで、どれだけの人が話をして楽になっているか。

あるいは、犠牲的かもしれないけれど、それだけ周りの人のことを考えてきたことに、どれだけ価値を見ることができるか。

逆説的かもしれませんが、自分の「当たり前」に価値を見ることが、他人とのコミュニケーションを円滑に導くようです。

とても不思議に、感じるものですけれどね。

 

ということで、コミュニケーション論になっても、結局いつもと言っていることは変わりませんでした笑

自分自身の素晴らしい価値を、たくさんたくさん認めましょう、ということですね。

少しでも参考になりましたら、幸いです。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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