大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

人生で起こる問題は、ずっとそこにあった愛を受けとることを教えてくれる。

人生のなかで問題が起こると、そこから本当の学びが始まります。

その学びとは、つきつめていくと、ずっとそこにあった愛を受けとる、ということなのではないかと思うのです。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.神は変幻自在の姿であなたのもとへやってきている

すべての周囲の人々は、あなたの心のために奉仕してくれています。

あなたが自分自身を思いだすのを助けようとしています。

そのひとりひとりの人は、じつは神が呼びかけ、あなたが紙から遠ざかっているところを見せているのです。

 

すべての人のなかに、あらゆる変装を通り越えた、むこう側に神がいることに気づいてください。

あなたの判断でとめないようにしましょう。

実際あなたはそうやって周囲の人々を枠にはめているのです。

それはまた気づいていようがいまいが、あなた自身に関する観念なのです。

目に見える人々を愛さないのなら、どうやって目に見えない神を愛せるというのでしょうか。

 

まわりにいるすべての人のなかに神を見ましょう。

するとどんな状況もよろこびと幸運で炸裂し、一種にっ駿に存在するよろこびを感じさせてくれます。

そして、あなたはどれだけ愛されているかを感じることでしょう。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.380

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2.そこにある愛を受けとる

今日のテーマは、いつにもまして神秘的ですね。

「神さま」についてというよりも、「愛を受けとる」というテーマのように私は感じます。

ある朝の、蝉の鳴き声

ときに、人は愛を受けとる体験をすることがあります。

それは、ある種の奇跡であり、また瞬間のなかに永遠を感じることでもあります。

「神は変幻自在の姿であなたのもとへやってきている」

その言葉に触れると、私の中で思いだされる2つの瞬間があります。

一つは、数年前のある暑い夏の朝でした。

問題だらけの人間関係にどうにもならず、初めてカウンセリングなるものを受けて、自分の心と向き合っていた時期でした。

自分の問題の多くの部分が、両親の突然の喪失からくるものだとは気づいていましたが、さりとて目の前の現実が変わるわけではありません。

心理学でいわれることも、頭ではなんとなく理解できます。

けれども、心が、ついてこない。

そんな状態で、日々何かと葛藤している時期でした。

自分の感情とは、自分の心の声を聞くとは、どうすればできるのだろう。

長らく、感情を抑圧し、他人の顔色をうかがってきた私には、よくわかりませんでした。

ただ、自分の両親のことは、何らかの決着をつけないといけない。

なんとなくではありますが、そんな風に感じていました。

そんなある日、確か7月の陽射しの降り注ぐ、朝でした。

道を歩いていると、蝉時雨とも呼べるような、騒がしい蝉の声が聴こえてきました。

アブラゼミだったか、それともクマゼミだったか。

その蝉の声のシャワーのなかを歩いていました。

ふと、その声の中に、懐かしい母の声を聞いたのです。

「あぁ、ここにいたんだ。ずっと」

そう、心の底から納得したように感じたことを、覚えています。

それは、とても心地よい安心感とともにありました。

失くしたものは、何もない。

すべて、いまここにある。

そう、感じた瞬間でした。

それと同時に、「いないことが、寂しい」という感情が、手触りをもって感じられるようになってきたように感じる瞬間でもありました。

 

あとから知ったことですが、親しい人を亡くすような喪失体験があったとき、人の心はその回復の過程でさまざまなプロセスを経ていきます。

その中のひとつに、「故人の声が聞こえる」という体験をする時期があるそうです。

私の体験が、そうしたものと同じなのか、それはよくわかりません。

ただ、そうした体験があった、という

桜の花が、すべてこちらを見ていた

もう一つは、春の季節のことでした。

私がカウンセラーとして師事している、根本裕幸師匠のカウンセラー養成講座で学んでいた時期でした。

半年間の講座の、中盤に差しかかる頃だったでしょうか。

どうにもしんどくて、自分の心の中の抵抗も大きくて、もうやめてしまいたい、そんな風に感じていました。

自分のなかの無価値感だとか、そういったものが暴れていたのかもしれません。

講座がある日の朝、とても沈んだ心持ちで、近所の川沿いを散歩していました。

桜並木が、満開の時期でした。

自分が、このまま続けてもいいのだろうか。

そんなことを、考えていたように思います。

ひとひらの桜の花びらが、目の前を舞いました。

ふと見上げると、何百、何千という無数の桜の花。

そのすべてが、こちらを見ていました。

「なぜ、そんなにも、こんな私に」

落涙が、止まりませんでした。

ただ、向けられた愛。

いままで、それをどうしていたのか。

相変わらず、そんな自分責めをしようともしましたが、無駄な抵抗でした。

ただ、愛されている。

それは、いつも、いま、この瞬間も。

それが、どれだけ尊いことか。

そんなことを感じる体験でした。

 

ごく個人的な体験を書いてしまいました。

けれども、今日の「神は変幻自在の姿であなたのもとへやってきている」という言葉に触れると、その二つの光景が思いだされます。

再現性もなく、説明もできない体験でしかないのですが。

3.問題がそれを教えてくれる

「遍界不曾蔵(へんかいかつてかくさず)」。

鎌倉時代に生きた禅僧である、道元の著書「典座教訓」に出てくる言葉です。

「遍界」とは、この世の中全体、全宇宙を指します。

「不曾蔵」とは、その読み方の通り、隠していない、という意味です。

つまり、真実はずっと変わらずそこにある、世界は何も隠していない、という意味を指す言葉です。

何も隠さず、そこにある。

私たちは、いつもそれに気づくだけなのかもしれません。

けれども、私たちはすぐにそのことに気づかず、素通りしてしまいます。

それを教えてくれるのが、人生で起こる何らかの問題なのだろうと思います。

それは、自分のなかの予定調和を、大きく崩してくれるからです。

それまでの色眼鏡では、まったくうまくいかない。

だから、問題が起こると、本当の学びが始まります。

ここでいう学びとは、何かの知識を得ることや、技術を習得したりマスターしたりすることではありません。

学びとは、それを学んだ前と後で、同じ人間でなくなる、という体験です。

世界観や人間観、あるいは周りの人への接し方、心のありよう…そうしたものすべてが変わることが、ここでいう学ぶということです。

そして究極的に言ってしまえば、それは「ずっとそこにあった愛を受けとる」ということにつながるように思います。

先に書いたような、私の個人的なふたつの体験もまた、そういった意味では学びの中の一部なのかもしれません。

 

人生のなかで起こる問題は、ずっとそこにあった愛を受けとることを教えてくれる。

だからこそ、私はカウンセリングの中で、問題を愛から見る視点をお伝えしていきたいと思っています。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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