大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

自分を癒すことで、ずっとそこにあった愛に気づくことができるようになる。

童話「青い鳥」にあるように、たいせつなものは外にあるのではなく、そこにあることに気づくだけです。

そして、自分を癒すことで、私たちはそこにあった愛に気づくことができるようになっていきます。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.愛はいつでも、あなたのところにやってきている

愛はいつでもそこにあるのに、私たちにヴィジョンと気づきがないために、それを受けとることができません。

判断と不平不満が自分自身への不快感を生みだし、目隠しになってしまっているのです。

目を開きさえすれば、いいことがたくさん私たちのほうへやってきているのを受けとることができます。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.417

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2.そこにあることに「気づく」だけ

私たちはいつも、たいせつなものを探し求めます。

しかし、それは「見つける」ものではなく、そこにあることに「気づく」だけなのかもしれません。

「青い鳥」は、家の中にいた

童話「青い鳥」では、チルチルとミチルが魔法使いのおばあさんに頼まれて、幸せの青い鳥を求めます。

思い出の国、未来の世界など、さまざまな世界をめぐって、青い鳥を探し回ります。

しかし、なかなか青い鳥は見つかりません。

疲れきった二人が、お母さんの声でベッドから起きると、家の鳥かごに「青い鳥」がいました。

二人が飼っていたハトが、実は青い鳥でした。

しあわせとは、自分の近くにあるのかもしれない。

「青い鳥」の童話が、世代を超えて読み継がれるのは、やはり何がしかの世界の真実を伝えているからなのでしょう。

私たちは、未だ見ぬ外側の世界に、自分の幸せがあると考えてしまいがちです。

しかし、ほんとうのところ、幸せ、あるいは愛は、いまここにあります。

絶え間なく、この世界は私たちに愛の光を降り注いでくれています。

ただ、それに気づくだけ。

それを、見ようとするだけ。

もし、それが見つからないとするならば、それは自分自身のメガネが曇っているだけ。

判断や不平不満が、自分自身の目を曇らせる

どうして、そこにある愛を、見つけることができないのか。

自分自身のメガネを曇らせるものの一つは、「判断」や「不平不満」だと今日の引用文では言っています。

「判断」とは、自分自身の価値判断の基準で、ものごとを切り分けてしまうことです。

これはいい、これはよくない、これは…といった具合に。

あるいは「不平不満」は、自分のなかの「こうあるべき」という期待と、現実とのギャップから生まれます。

自分の期待する通りでないと、受けとれない、という状態です。

「判断」も「不平不満」も、その根底にあるのは自分自身の心の痛みであり、傷です。

傷ついた経験があると、二度とそんなことにならないように、自分のなかにルールや基準をつくります。

たとえば、いつもはしゃいでいたら、ひどく叱られた。

そうした経験があると、「羽目をはずして騒いではいけない」という基準を自分のなかにつくります。

あるいは、大切な友人だけに秘密を打ち明けたのに、それを広められてしまった。

そんな経験をしたら、「他人を信用して、心の内を明かしてはいけない」というルールがつくられます。

そうした基準やルールをもとに、「判断」は生まれます。

もちろんそれは、二度と傷つかないように、自分を守るためにしている防衛反応ともいえます。

けれども、それがものすごくその人の世界を狭めて、窮屈にしてしまうのは、想像がつくのではないでしょうか。

「不平不満」も同じです。

自分の望みが叶わなくて、とても傷ついた。

すると人は、「こうなってほしい」「こうしてほしい」と伝えて要求する代わりに、「こうなればいいのに」と自分の心の中で期待するようになります。

けれども、往々にしてその期待は裏切られます。

「不平不満」は、そんなときに生まれます。

「判断」も「不平不満」も、その根底には傷ついた私がいます。

そして、それらが私たちのメガネを曇らせ、そこにある愛を見えなくさせてしまいます。

3.どんな私にも、愛は降り注ぐ

そう考えていくと、やはり自分を癒し続けることが、そこにある愛に気づくことにつながります。

昨日の記事で、自分を癒し続けることの大切さを書きました。

自分を癒し続けることで、私たちはたいせつな人に愛を与え続けることができる。

それとは別の視点で、自分を癒し続けることは、そこにある愛に気づくことにつながります。

いかに、自分が愛されていたか。

それに気づくと、私たちは深い安心感に包まれます。

どうあっても、大丈夫。

その安心感のなかにいると、私たちは至福を感じることができます。

自分を癒し続けることの恩恵は、そんなところにもあります。

そして、「癒し」とは、終わりのないものです。

完全に癒されることなど、私たちが生きているうちには、ないのかもしれません。

そういった意味では、私たちは、自分自身に降り注ぐ愛を、完全に受けとることは難しいのかもしれません。

でも、そこに申し訳なさや、罪悪感を感じなくても大丈夫だと思うのです。

どんな私にも、この世界は完全な愛を降り注いでくれています。

ただただ、「そうなんだ」と、そのことを知るだけでいいのだと思います。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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