「怒り」とは、感情のフタと呼ばれるように、その奥に自分の大切な感情を隠すためのものです。
怒るのはイヤなものですが、「怒り」はエネルギーの源でもあるため、それを抑圧するのは危険です。
「怒り」の性質と、その安全な発散の仕方について、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.怒りとは、自分がしてしまったと思うことで人を責めること
「怒り」は、自分自身に対する気持ちを他人に投影したものです。
私たちは怒っているとき、その怒りの原因は、自分には何ら無関係で、自分はまったく悪くないかのようなふりをします。
しかしじつのところ、どんな怒りや攻撃も、自身の怖れや罪悪感によって駆り立てられたものなのです。
すべての怒りは誠実さに欠けています。
たしかに自分が感じている怒りをきちんと体験し、表現しているという面では誠実です。
ただしそのあとで、怒りを使ってまわりの状況を思いどおりに動かそうとしないことが大事なのです。
気づいてください。
怒りの言葉をくりかえし言うことで、私たちはまわりを支配しようとしているのです。
本当は自分が悪かったと感じていることを、自分のかわりにパートナーやだれかを責めて、思いどおりに動かそうとするのです。
親が子供の行動に怒りを覚えたり、その子が将来どのように成長していくかに怖れをもつとき、その親の怖れや怒りは、自分自身についての観念からきています。
けれども癒されていくにしたがい、親と子供のあいだにも柔軟性や創造性が増してくるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.137
2.「怒り」とは何だろう?
今日のテーマは「怒り」についてです。
「怒り」は非常に重要なものであり、この一回の記事だけではとても足りないと思われます。
しかし、こうして書きながら、私も一緒に「怒り」の理解を深めていきたいと思います。
「怒り」は感情のフタ
「怒り」は、私自身も苦手です。
怒っている人も苦手ですし、自分が怒ることもイヤなものです。
そんな「怒り」について書かれた今日の引用文ですが、もう一行目から目を逸らしたくなりますよね笑
「怒り」は、自分自身に対する気持ちを他人に投影したものです。
はい、いやですねぇ…ほんと(遠い目)
しかしながら、「怒り」の性質の本質が、ここに凝縮されています。
「怒りは感情のフタ」と、言われることがあります。
「怒り」は感情のように見えて、そうではない。
実は、自分の奥底に隠している感情が開くときに、感じるものだとされます。
つまり、「怒り」の奥底には、自分自身が見ないように、感じないようにしていた感情や気持ちが、隠れている。
それを気づかせてくれるのが、「怒り」というわけです。
「あなたには、そんなこと言われたくない!」という裏には、「恥ずかしさ」という感情が、
「なんであんないい人が、会社を辞めないといけないんだ!」という裏には、「悲しさ」や「憤り」という感情が、
「こんな結果になったのは、お前が悪いんだ!」という裏には、自分の力が足りなかったという「無力感」、あるいは「罪悪感」が隠れているのかもしれません。
マイルールを破られたときに、「怒り」を感じる
そうした感情は、自分の中にあるルールが破られたときに、強く感じます。
ルールとは、観念、思い込み、ビリーフ、マイルールなどとも呼ばれます。
人前で、ミスを指摘してはいけない。
皆のために貢献した人は、報われるべき。
みんなで頑張れば、結果が出るはずだ。
…などなど、自分の観念を破る出来事が起こると、人は「怒り」を感じるわけです。
それは、自分の中の大切なルールであればあるほど、それを破られたときに強い「怒り」を感じます。
そして、「怒り」を使う(周りに怒っているところを見せる)ことで、自分の周りを思い通りにコントロールし、自分のルールどおりに状況を戻そうとするわけです。
怒りの言葉をくりかえし言うことで、私たちはまわりを支配しようとしているのです。
本当は自分が悪かったと感じていることを、自分のかわりにパートナーやだれかを責めて、思いどおりに動かそうとするのです。
「怒り」は、周りをコントロールしようとするために使われる。
いやぁ、コントロールされるのは、イヤなものですよね。
そして、自分もそうしていることに気づくのも、「うぇぇ…」という感じがします。
しかし、その裏には自分が隠そうとしていた感情や気持ちが眠っているようです。
3.「怒り」は、とても大切なもの
「怒り」を抑圧するのは危険
さて、ここまで「イヤだ、イヤだ」と書いてくると、「じゃあ、怒らないようにしよう」と思われるかもしれませんが、それはとても危険です。
怒りっぽい人を思い浮かべてみると、よく分かると思います。
普段から怒っている人は、それだけパワフルで、エネルギッシュな人が多いのではないでしょうか。
そんな人が、「怒らないようにしよう」としたら、とたんに元気がなくなってしまうような気がしませんか?
実際に、「怒り」を抑圧すると、無気力になり、果ては抑うつ状態になってしまうこともあります。
その状態は、「怒り」の攻撃性が、自分に向いてしまっている状態といえます。
以前に見た、「デッドゾーン」といわれる自立の極北が、この状態ですね。
そもそも、「怒り」の裏には、自分の大切な感情があるわけですから、それを無視してしまうことになってしまいます。
自分の感情を、自分が無視する。
それが、どれくらい危険なことか。
「怒り」を抑圧することの危険性を、ご理解いただけましたら幸いです。
誰かにぶつけるのではなく
自分の感情に責任を持つ
「怒り」を抑圧するのは危険。
しかし、だからといって、その「怒り」を誰かにぶつけるのも、あまりいい解決策ではありません。
まあ、ぶつけたくなってしまうのですけれどね笑
ぶつけたくなるのは、「怒り」を感じるのが怖いため、そのベクトルを
しかし、ぶつけた瞬間はスッキリするかもしれませんが、その後で、重大な問題が起きます。
「誰かに怒ってしまった」という罪悪感が、自分の心の奥底に巣食うわけです。
そうすると、怒った自分を責めたり、何か償わないといけないと感じたり、自分を幸せから遠ざけようとしてしまいます。
あらゆる場面で、この罪悪感は仕事をしてきますね、ほんと…
抑圧するのでもなくて、他人にぶつけるのではないとしたら。
やはり、自分で感じた「怒り」は、自分で感じ尽くすしかないのでしょう。
自分の中に出てきた「怒り」を、誰かに処理してもらうとしない。
「怒り」を誰かにぶつけるのは、トイレに行きたくなったのに、「処理して!」とぶつけるようなものかもしれません。
汚い話ですが笑
「怒り」の感情と向き合うための具体的な方法
さて、「怒り」を自分で感じるためには、いろんな方法があります。
まず非常に有効なのは、「書くこと」でしょうか。
怒って吐き出したい罵詈雑言を、そのままにノートに書きつける。
形として外に出すことで、非常にスッキリします。
あるいは、身体を使うことも有効です。
走ったり、歌ったり、踊ったり、スポーツをしたり…思い切り身体を動かすことで、「怒り」のエネルギーが発散されます。
私も、ランニングの途中で、短い距離を全力疾走するのを、何度も繰り返すことを、よくしたりします。
思い切り身体を動かすことで、頭も心もスッキリしますし、よく眠れるようになります。
足のケガだけには、気をつけないといけませんが笑
今日は「怒り」の心理と、その特徴、そして「怒り」の処理の仕方について、書いてみました。
大前提として、「怒り」とは自分が大切なものにしか抱きません。
どうでもいいことには、怒らないわけですから。
そう考えると、少し「怒り」の見方も変わるかもしれません。
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