大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

時には、昔の話を。 ~塩素と太陽の匂いと

なぜか、生まれ故郷のプールの夢を見ました。

久しく訪れていないその場所の記憶は、久しく触れていなかった記憶を、呼び覚ましてくれるようです。

 

私が生まれた町に、市民プールができたのは、いつのころだったのか。

小学生のころだったでしょうか。

それとも、もっと前からあったのか。

そんな記憶もあいまいなほど、昔の話になってしまいました。

ただ、「町のはずれの方に、なんかできるらしい」という噂に、子ども心が躍ったような記憶があるので、新設か改修か分かりませんが、何かはあったのでしょう。

サッカーや野球ができる運動場、武術ができる体育館、そして科学館と、市民プール。

しかも、市民プールは室内と屋外の両方がある。

そんな複合施設ができることに、その近所に住んでいた友人は、誇らしげにしていたことを覚えています。

 

大人になってから、子どもの頃に過ごした街を訪れると、どこか街のサイズがずれているような感覚に襲われることがあります。

子どものころは、結構歩いたような気がした道が、ほんの数分のところだったり。

ずいぶんと離れていた気がした場所が、意外と近かったり。

私たちの身体のサイズと、街のサイズ。

その比率が、狂ってしまうからなのでしょうか。

どこか、そのサイズの違和感には、寂しさを覚えたりもするものです。

翻ってその市民プールは、私の家からずいぶんと離れたところにありました。

いまは車を運転するので、気にもならないのですが、小学生時分の私にとって、その距離というのは、結構な距離のように思えていました。

サッカースクールに通っている友だちが、そこのグラウンドで練習をしていることを聞いたような気がします。

 

内向的で、野球少年団にも、サッカースクールにも通っていなかった私にとって、夏休みは静かで、そして長いものでした。

学校で遊ぶ約束をすれば遊ぶのでしょうけれども、40日以上もある休みのなかで、誰かと遊ぶ日が毎日あるわけでもありません。

両親は共働きでしたので、近所の祖母の家で面倒を見てもらいながら、過ごしていました。

その祖母の家の近くにある市民会館横の公園が、いつもの私の居場所でした。

たまに同じような年代の子どもたちが遊びに来るのですが、学区が違うのでまったく面識がありません。

いつも私は、その公園で、一人遊びをしていました。

いや、遊び相手はいました。

小さな虫たちでした。

タモと虫かごを持って、来る日も来る日も、虫を捕まえては、リリースしていました。

アブラゼミと、ショウリョウバッタ、カマキリ。

あとはアゲハチョウ。

たまに、綺麗なエメラルドグリーンの模様のアオスジアゲハを捕まえることができると、うれしかったことを覚えています。

昨今の夏のように、危険な気温まで上がることもなく、半日遊んでいても苦にならなかったように覚えています。

ただ、蝉時雨の公園で、私はいつも彼らに遊んでもらっていました。

 

そんな夏の日。

母親が、市民プールに連れて行ってくれることになりました。

あのときは、車がなかったのか。

母と二人、自転車でその市民プールへ向かいました。

ずいぶんと遠い、そのプール。

漕げども漕げども、たどり着かなかったように覚えています。

ようやく着いたプールで、屋外プールに入りました。

50mのコースが、8本あったでしょうか。

いつもの小学校の25mのプールとは違い、まるで海のような広さのプールに、私ははしゃいでいました。

母は日陰で休み、本を読んでいたように思います。

私は、その広大なプールで、一人遊んでいました。

 

楽しい時間は、すぐに過ぎ去ってしまうようで。

名残惜しさをプールに置いて、家路につくことになりました。

まだ、陽は高かったように思います。

行きはよいよい、帰りはこわい。

そんな歌ではないのですが、行きの道以上に、長く感じられました。

プールではしゃぎすぎて、疲れ果てた私は、ぼんやりとしながらも、なんとかペダルを漕いでいました。

信号待ちで止まったところ、不意に私はうつらうつらと、していました。

Tシャツの下から立ち昇る塩素の匂いと、夏の午後の太陽の匂いと。

それが混ざって、どこか心地よさを感じていました。

「寝たらだめだよ」

母の声で起こされた私は、はっと現実に戻り、またペダルを漕ぎだしました。

まだ、家までの道のりは長そうでした。

強い夏の日差しが、どこかやさしく、それでいてやわらかだったことを、よく覚えています。

「自転車に乗ったまま、寝ようとしていた」

そんな小さな私の姿を、のちに笑い話として何度も母が話していたのも、よく覚えているのです。