「人よりも恵まれている」という罪悪感を癒すには、自分の価値や才能を「受けとる」ことが王道です。
しかし、それが難しいときは、「諦める」という視点を持ってみてはいかがでしょうか。
1.「助けられなかった」という罪悪感
昨日の記事では、「助けられなかった」という罪悪感を持つ人は、というテーマでお伝えしました。
助けようとするのは、助けられる力や資質を持っている人だからこそ。 - 大嵜直人のブログ
ここのところ「罪悪感」のテーマが続いておりますが、食傷気味になっていないでしょうか…?
私としては、「罪悪感」がテーマだと書きやすい気がするのですが、それは私が「Mr.罪悪感」だからなのでしょうか笑
それはさておき、一口に「罪悪感」といっても、さまざまな種類のものがあります。
もちろん、その大元にあるのは「私は悪いことをした、罪を犯した、汚れている」といった感覚であり、それゆえ自分を罰しようとしたり、幸せから遠ざけようとするものです。
ただ、その感覚を抱く原初体験に、いくつかのパータンがあるといった感じでしょうか。
昨日は、そのなかでも「誰かを助けられなかった」というパターンについて、少し考えてみました。
この「助けられなかった」という罪悪感は強烈で、それゆえに自分だけが幸せになってはいけない、というパターンを生みやすいといえます。
そして、自分にとって大切な人に対してほど、この「助けられなかった」という感覚を持ちやすいものです。
しかし、この「助けられなかった」という想いは、「助けられる」力や資質を持った人だからこそ抱くものじゃないでしょうか?というのが、昨日の記事の核心でした。
その力や資質を持っているからこそ、「助けたい」「助けよう」と思う。
「助けられなかった」という後悔(本質的には、その後悔も誤認ではあると思うのですが)よりも、自分がその力や資質を持っている方に、フォーカスしていくこと。
それが、「助けられなかった」という罪悪感を癒していくヒントになるのではないか、というテーマでした。
2.「人よりも恵まれている」という罪悪感
さて、今日はまた少し違うテイストの「罪悪感」と、その癒し方について、少し考えてみたいと思います。
今日扱うのは、「人よりも恵まれている」という類の罪悪感です。
これ、聞けばなるほどなと思うのですが、自分ではめちゃくちゃ気づきにくい「罪悪感」といえます。
まぁ、気づきにくいのは「罪悪感」全般に言えることではあります。
だって、自分は悪いヤツだなんて、自覚したくないですもんね笑
ただ、その中でも、この「人よりも恵まれている」罪悪感は、気づきにくいのではないかと思います。
たとえば、こんな場面を想像してみると、わかりやすいかもしれません。
「ある小学生が遊んでいて、そろそろ夕飯の時間だから帰ろうとしたら、友だちが『いいなー、家にご飯があるの。俺の家、親が帰ってくるの遅いから、いつも一人寂しくカップ麺なんだよなー』とぼやいていた」
「自分よりもまじめに部活の練習をがんばっている先輩が、全然うまくならない。入部してすぐの自分がレギュラーを奪ってしまった」
「毎日塾に通って、週末は家庭教師もつけて、勉強をがんばっている友だちよりも、学校の授業を聞いているだけの自分のほうが、テストの点数がよかった」
…いかがでしょうか。
似たような、思い当たるご経験はありますでしょうか。
なんか、胸がきゅうとなるような、なんだか切ないような、そんな感覚になりますよね。
こうした「人よりも恵まれている」という罪悪感を抱くと、多くの人は二つの反応を示します。
一つは、その恵まれている面を、必死になって隠そうとする。
もう一つは、「そんなの、練習してできない方が悪いんだ」「才能が無い方がいけなんだ」と、相手を非難することで、自分を納得させようとする。
「罪悪感」の反応として、「引きこもる」か「攻撃する」かのいずれかである、というのは以前にもお伝えしましたが、まさにその通りといえます。
しかし、このいずれもが、とてもしんどいものであるのは、ご想像の通りです。
前者の場合は、自分の恩恵を自分で消そうとするわけですから、仮の人生を生きるような、自分がどこにもないような、そんな感覚に陥ったりします。
後者の場合は、お察しの通り、周りと衝突しやすくなりますし、人が離れていきます。
「人よりも恵まれている」という罪悪感は、かくも厄介なものです。
3.受けとるのは困難だから、「諦める」
こうした「罪悪感」を考えるとき、「他人と比較することで感じるのだから、人と比べないようにしましょう」としても、それは無理な相談なわけです。
だって、自分を知るためには、誰かとの比較のなかでしかできないものですから。
もちろん、ある程度、自分のアイデンティティが確立していれば、それは正しいとは思います。
しかし、この種の「罪悪感」のルーツは、そうしたものが確立する前の、思春期やそれ以前の経験によるものが多いものです。
じゃあ、どう考えたらいいか、という話になるのですが、まずは「受けとる」という視点が重要です。
「また、それか…」と思われたかもしれませんが、また、これです笑
自分に与えられた恩恵、才能、資質、環境、魅力や価値…そうしたものを、「受けとる」こと。
それを受けとることができると、「罪悪感」よりも「じゃあ、それを使って、何をしようか」という方にフォーカスできるようになります。
…と、ここまでは理想論です笑
でも、なかなかそれって、難しいものですよね。
だって、この「人よりも恵まれている」という罪悪感を感じる人は、その比較している人も恵まれてほしい、幸せになってほしい、という強い想いを持つような人でしょうから。
そうした「与えたい人」に、「受けとりましょう!」といっても…まあ、難しいのは難しいです。
だって、自分が受けとるよりも、周りに与えたい人なのでしょうから。
難しいですよね笑
もちろん、それを受けとれるように、自分を癒していくのが王道ではありますが、「諦める」という感覚も、一つの視点としてご紹介したいと思います。
身も蓋もない話ではありますが、「もう、そういうものだから」という、理屈抜きにして「諦めて」しまう。
「諦める」とは、決してネガティブな意味ではありません。
一説には、「諦める」の語源は「あからしめる」であるように、ここでは「ものごとを明らかにする」というニュアンスで使っています。
ある意味で、それは「受けいれ、受けとる」ことなのですが、単に「受けとりましょう」と言われるよりも、「諦めましょう」と言われた方が、しっくりくることがあると思うのです。
もう、そういうものだから仕方がない、とあきらめる。
「よくわからないけれど、私の家はそうなんだ」
「なんだかしらんけど、私にはスポーツの資質があるらしい」
「私には、理解力があるらしい」
それは、資質や才能、環境が恵まれていることをかさに着るようなことではありません。
むしろ、そうした資質の持つ影の部分(罪悪感もそうですよね)すらも、受け入れていくのが、「諦める」という態度です。
清濁併せ吞む、といった感覚に近いでしょうか。
自分の価値や才能、資質や恵まれた環境。
「受けとる」ことができれば、それでいいんです。
でも、なかなかそれができないときは、無理に「受けとらなあかん」と考えるよりも、「もう、諦めちゃいなよ」と言われた方が、楽になることもあります。
ご参考になりましたら、幸いです。
今日は、「人よりも恵まれている」罪悪感を癒すためには、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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