大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

この世界には、わたしに向けて贈られた愛が、たくさんある。それに気づいていても、いなくても。

「罪悪感」が怖ろしいのは、自分に贈られている愛に気付けなくなることです。

それに気づけるようになるのが望ましいのですが、ただ「自分に向けられた愛があること」を認めるだけでも、変わるものがあります。

1.罪悪感よりも愛にフォーカスを

昨日の記事では、罪悪感よりも愛にフォーカスを、というテーマでお伝えしました。

「罪悪感」で受けとれないことを責めるよりも、愛にフォーカスを。 - 大嵜直人のブログ

周りからの愛を受けとれないとき、その原因の一つに「罪悪感」があります。

一口に「罪悪感」といっても、さまざまな種類のものがあります。

誰かを傷つけてしまった罪悪感、役に立てなかった・助けられなかった罪悪感、何もしなかった罪悪感。

あるいは、自分が恵まれていることへの罪悪感や、親や社会から受け継いだ罪悪感といったものもあります。

そうした「罪悪感」は、いずれも自分自身を幸せから遠ざけるようにさせます。

平坦で楽な道と、イバラの道があったら、迷わずイバラの道を選ばせるようなものです。

「罪悪感」ですから、「罪」があって「悪い」という意識があるのですから、罰を享けなくてはならず、ハッピーでいてはいけないわけです。

周りからの愛を受けとるのも、拒否しないといけないわけです。

罪人ですから、愛されてはいけないですから。

「罪悪感」が強いと、周りからの愛を受けとるのが難しくなる。

けれども、「受け取り下手で、ダメだなぁ泣」と自分を責めるよりも、その罪悪感の裏側にある愛にフォーカスしましょう、というのが昨日のテーマでした。

「罪悪感」があることを責めるのではなく、そこに愛があるから「罪悪感」も感じるんだ、という見方です。

助けたかった、傷つけてしまった、見捨ててしまった。

そうした想いは、自分にとって大切な相手であるからこそ、抱くものです。

だから、「罪悪感」があることは、悪いことでもなんでもなく、「それだけ、自分のなかには愛があるんだなぁ」という視点を持てると、少し楽になるのではないでしょうか。

2.「気づかない」のが罪悪感の怖さ

そうした「罪悪感」ですが、自覚できる分には、まだいいのかもしれません。

目に見えている問題は、問題ではないと言われたりしますしね。

ほら、真正面から飛んでくるものには、みんな身構えるじゃないですか。

バッティングセンターでも、ボールが前からくるのが分かっているから、構えられるわけで。

でも、普通に出勤途中でぼけーっとしている途中で、見えない方向からボールが飛んできたら、めちゃくちゃ驚くし、当たったら「なにが起こったんだ?」とばかりに取り乱したりしますよね。

「罪悪感」が真に恐ろしいのも、同じです。

自分が自分を幸せから遠ざける選択をしていることに、気づかないことです。

意識的にそうした選択をしているつもりではないのに、自分を不幸せにする選択をしてしまっている状態に、陥りやすいのです。

自分を傷つける人ばかりを好きになる。

ハードワークな働き方ばかりをしてしまう。

自分の欲求や願望を無視して、他人のそれを優先する。

…そうしたことは、意識してそうしているわけでもないのですが、「気づいたらそうなっている」ことが多かったりします。

選択した自覚もないのに、自分を不幸せな方向に導いてしまう。

それが、「罪悪感」の怖ろしさです。

今日の冒頭で触れた「愛を受けとる」というテーマで考えると、「受けとれない」と気付いているなら、まだいいわけです。

「なかなか受けとれないけれど、ありがとう」と、相手に感謝を贈ることもできますから。

けれど、周りから愛を贈られていることに気づいていないと、どうすることもできないわけです。

それどころか、「わたしは全然、愛されない」みたいに、拗ねてしまうことすら、あるかもしれません。

はい、思い当たる節がありありの私です笑

愛を贈られていることに、愛されていることに気づかない。気づけない。

「罪悪感」の、最も怖ろしい作用の一つです。

3.贈られている愛があると信じること

贈られている愛に、気づかないことの怖ろしさ。

では、「気づきましょう」と思われるかもしれませんが、これが難しいんですよね。

「目には見えないけれど、紫外線ってのがあるんだよ」

と言われたところで、「へぇ」としか思わないじゃないですか。

気づいていないものを「気づきましょう」というのは、見えないものを「見ましょう」というくらいに、無理があります。

じゃあ、どうしたら、気づくようになるのか。

一つには、自分の心を癒していくことが、その方法です。

「癒し」とは、ものごとの見方がポジティブに変わることを指します。

そのため、癒しが進むほどに、受けとれる愛の総量が大きくなるものです。

過去の経験や、あるいは誰かに言われたこと。

そうしたものが、「自分にとって好ましくないできごと」「世界から見捨てられたできごと」だったのが、「自分は愛されていた」「こんなにも愛されていたんだ」と解釈が変わることも、珍しくありません。

ただ、自分を癒していくことは、時間がかかるものです。

そして癒しの道は、ゴールがあるものでもなく、ずっと続いていくものでもあります。

だとするなら、「愛がある」ことを信じてしまえば、いいのかもしれません。

「この世界には、わたしに向けて贈られた愛が、たくさんある」

もしかしたら、いまの自分には、気づけない形かもしれない。

けれども、その愛はずっと変わらず、わたしに対して、贈られ続けている。

それに気づいていても、いなくても。

受けとっていても、いなくても。

ただ、わたしに贈られている愛があること。

それを信じることは、できるように思います。

その愛は、このわたしの頭上に降り注ぐ、陽の光のあたたかさと、同じようなものかもしれません。

今日は、「罪悪感」で受けとれないことを責める、愛にフォーカスを、というテーマでお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

〇大嵜直人のカウンセリングの詳細・お申込みはこちらからどうぞ。

※ただいま12月度の個人カウンセリングを募集中となります。

〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。