自分の価値や才能に無自覚でいると、周りとの葛藤を生んだり、必要以上に消耗してしまったりします。
その才能を受けとるには、「誰に分け与えていきたいか」を考えることが大切です。
1.助けられなかった罪悪感は「助けたい想い」から
昨日の記事では、「助けられなかった罪悪感」をテーマにしてお伝えしました。
「助けられなかった」という罪悪感があるのなら、「助けたい想い」を求めている人に向けてみませんか。 - 大嵜直人のブログ
何らかの「罪悪感」を抱いていると、私たちは自分を罰するような行動だったり、自分を幸せから遠ざけるような選択をしてしまいます。
そんな「罪悪感」のなかでも、代表的といえるのが、この「助けられなかった」という種類のものです。
「仕事で大変そうだった同僚に、手助けができなかった」
「いつも不仲だった両親を、助けられなかった」
「傷ついていたパートナーを助けられず、別れてしまった」
分かりやすいがゆえに、この種の「罪悪感」は強烈です。
しかし、そもそも論として、この「罪悪感」を持つのは、「助けたい」という想いを持っている人です。
それは、当たり前のことではないんですよね。
当の本人からすれば、その「助けたい」という想いを持つのは当然だ、と思うかもしれません。
けれども、同じ状況やできごとを経験しても、「助けられなかった」という想いを抱かない人もいます。
言ってみれば、「助けたい」という想いがあるからこそ、「助けられなかった」という罪悪感もまた、芽生えるのでしょう。
その想いが強ければ強いほど、「罪悪感」もまた強くなるのかもしれません。
そのように考えると、「助けられなかった」という見方をする人は、みな「助けたい」という想いを持っている人といえます。
「助けられなかった」という罪悪感を考えるとき、それを持つのは「助けたい」という強い想いを持つことができる資質、あるいは才能を持っているから、という視点は、非常に大切なものです。
もし、そうした資質や才能があるのだとしたら、それを誰にどうやって分け与えていくのかを考えてみませんか、というのが昨日のテーマでした。
2.自分の才能に無自覚でいると起こること
この「罪悪感」に限った話ではないのですが、自分自身の才能や資質に無自覚でいることは、非常に怖いことです。
「とんでもない、自分に才能なんて、めっそうもない」
と謙遜するのは勝手ですが、それが自分にとって、そして周りの人にとってネガティブな影響を与えることがあります。
まあ、平たく言えば、いつも通りの「もっと自分の価値を受けとりなはれ」になるのですが、それは自分のためでもあり、周りの大切な人のためでもあります。
よく、この「〇〇しないと、こーんなネガティブなことが起こるよ」といった、怖れを煽る定型文のような書き方は、私はあまり好きではありません。
けれども、あえて今日は、自分の才能に無自覚でいると起こる、ネガティブな面をお伝えしてみたいと思います。
それだけ、自分の価値や才能を受けとるというのは、大切なことだと思いますから。
自分自身が消耗する
ここでいう才能や価値とは、息を吐くように自然にできること、とでも表現できるでしょうか。
付け加えるなら、周りの人は意識しないとそれができないこと、ともいえます。
自分の意識と、周りの見ているものに、大きなギャップがあるわけです。
先ほどの「助けられなかった」という罪悪感でも、同じです。
この罪悪感を強く持っている人ほど、それだけ自分が「助けたい人」であるという自覚がないことが多いものです。
そうすると、どうなるか。
無自覚にその力を使い過ぎて、自分が疲弊したり、消耗したりしてしまいます。
ウルトラマンだって、3分間しか活躍できないのに、その3分を過ぎてまで、何とかしようと苦闘してしまうようなイメージでしょうか(古すぎますかね笑)
もうちょっといい例え…そうですね、F1マシンのようなスーパーカーが、メンテナンスなしで時速300キロオーバーで走り続けるような感じでしょうか。
F1マシンにしたって、コースを何周かしたらピットインして、タイヤを替えたり、オイルをさしたりしてから走るわけです。
それを、まるで軽自動車にでも乗るように、ずっと走り続けたら…エンジンが焼き切れるか、燃料が切れるか、そんなことになってしまうのでしょう。
「助けたい」という強い想いを持っている人も、同じです。
自分の持っている価値や資質、才能を自覚していないと、誰かを助けられないとショックを受けたり、自分を責めてしまったりするわけです。
周りから嫉妬される、孤立する
自分の才能に無自覚でいるときに起こる、二つ目のネガティブなこと。
それは、周りからの嫉妬です。
ぜんそくで苦しんでいる人にとって、自分の思い通りに息を吸って吐けるというのは、それだけで無上の価値があるものです。
しかし、そうでない人にとっては、呼吸するのは当たり前のことでしかありません。
ふつうに呼吸できる人が、
「いや、息が吸えることに価値があるだなんて、とんでもない。私はそんな価値のある人じゃないんです」
なんて言っているとしたら。
呼吸器系の病で苦しんでいる人にとっては、どんなふうに見えるでしょうか。
「ふざんけんなよ」と、そんなふうに感じるかもしれません。
これ、他人事じゃないんです。
自分の価値や才能を受けとっていないと、周りから嫉妬されます。
そうすると、自分の価値や才能が、忌み嫌うべきもののように思えてきたりします。
果ては、そうした嫉妬がめんどくさくなって、周りと距離を置いたり、孤立したりするようになったりします。
本来、かけがえのないはずの資質や才能といったものが、それがゆえに、自分自身を傷つけてしまうなんて。
実に、切ない話だと思いませんか…?
3.その才能を、誰に分け与えたいですか?
価値や才能。
それ自体は、すばらしいものであり、かけがえのないものです。
しかし、それがゆえに、人は苦しむこともあります。
かつて、私の価値を伝えてくださった方が、おっしゃられていました。
「才能は、美しさと残酷さの際(きわ)にあるんです」
なんとも、含蓄の深い言葉だと思います。
先に述べたように、受けとらないことで、自分自身を傷つけてしまうこともあります。
あるいは、自分自身の才能が萌芽するきっかけが、とても悲しいできごとだったりすることもあります。
その才能を活かすためには、大切なものを手放していくことが必要になったりもするのでしょう。
才能とは、美しさと残酷さの際にある。
だからこそ私たちは、それを受けとることに躊躇するのかもしれません。
でもね、やっぱり受けとらないといけないんです。それは。
カウンセリングでもそうなんですが、私が「〇〇だ」という断定的な言い方をするのは、その人の価値や才能を伝えるときだけです。
それだけはね、やっぱり受けとるべきなんです。
「『べき、ねば』は手放していくもの」、なんて言ったりもしますが、この場合の「べき」だけはいいんです笑
それは自分のためでもあり、そして何よりも、それを必要としている人のために。
自分自身の才能に無自覚いると、いろんな弊害が起きてしまいます。
あなたは、ご自身の才能を、自覚していますでしょうか。
それを「受けとりましょう」と言われると、なんだか抵抗がでてきたり、なかなか難しいのかもしれません。
そんなときは、少し問いかけを変えてみると、すっと入ってくることもあります。
「あなたは、その才能を、誰に分け与えていきたいでしょうか?」
少し、考えてみる価値のある問いだと思います。
この問いが素晴らしいのは、その才能がもう「ある」前提で考えられるからです。
あなたの才能を、必要としている人がいます。
ぜひ、それを忘れないでいてくださいね。
今日は、自分の才能に無自覚でいるとどうなるか、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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