「見捨ててしまった」という罪悪感の裏側には、「(自分が)見捨てられた」という痛みがあります。
この痛みを癒していくと、「見捨ててしまった」という罪悪感も薄まっていきます。
1.「諦める」という癒し方
昨日の記事では、「人よりも恵まれている」という罪悪感、というテーマでお伝えしました。
「人よりも恵まれている」という罪悪感を癒すためには、ある種の「諦める」感覚が大切。 - 大嵜直人のブログ
「罪悪感」にもさまざまな種類がありますが、そのなかでも、この「人よりも恵まれている」という罪悪感は、気づきにくい部類に入るように思います。
しかし、この「罪悪感」があると、周りに合わせようと自分の価値をできるだけ下げようとしたり、自分の才能を隠したり否定したりするようになってしまいます。
そして、同調性を重んじる日本においては、とりわけこの種の「罪悪感」を感じる人は多いのかもしれません。
「生まれた家が裕福だった」
「人が努力してようやくできることを、なんとなくできてしまう」
「小さい頃から健康そのもので、大きな病気をしたことがない」
…こうしたことはほんの一例ですが、実にさまざまな場面で「人よりも恵まれている」と感じることがあります。
そうすると、先に書いたように、自分の持っている価値を無理矢理に貶めようとしたり、自分の恵まれている部分を隠そうとしたりしてしまいます。
もちろん、そこには「出る杭は打たれる」という怖れもあるでしょうし、自分だけ恵まれていたら申し訳ない、という感覚もあるのでしょう。
けれど、こうしった細工や化粧、というか才能隠しとでも呼ぶべきものに、周りの人は敏感です。
ほら、いるじゃないですか、「全然勉強してないよ」という人に限って、テストの点が抜群によかったり笑
本人は、周りのためにしているはずなのに、かえって周りとの葛藤を生んでしまう。
因果なものですよね…
そうした無用な衝突や葛藤、あるいは嫉妬を防ぐためにも、この「罪悪感」を癒しておくことは重要です。
その王道は、「自分の価値や才能を受けとる」という方向です。
ですが、なかなかこの「受けとる」というのも、難しいものです。
そもそも論として、この種の「罪悪感」を持つ人は、「受け取り下手」な人が多いのでしょうし笑
もちろん、自分を癒しながら、自分の価値を受けとれる自分になっていくことは、ベースとして必要なことです。
昨日の記事では、そこから少し視点を変えて、「諦める」という癒し方をご紹介しました。
決して否定的なニュアンスではなく、あるものをあるがままに受け入れる、といったポジティブなニュアンスです。
「もう、そういうものだから仕方がない」といった感じでしょうか。
「人よりも恵まれている」という罪悪感を癒す、「諦める」という視点が、昨日の記事のテーマでした。
2.「見捨ててしまった」という罪悪感
さて、今日はまた違う種類の「罪悪感」について、少し考えてみたいと思います。
今日扱うのは、「見捨ててしまった」という罪悪感です。
これは、結構分かりやすいかと思います。
たとえば、あなたが急いで電車に乗ろうとしていたら、駅のホームでうずくまっている人がいた。
顔色は見るからに真っ青で、胸を押さえている。
しかし、この電車に乗らないと、あなたの推しのコンサートに間に合わない。
高倍率の抽選をくぐり抜け、この日のために生きてきたともいえる、そのコンサートに遅れるわけにはいかず、あなたは電車に飛び乗る…
…ちょっと、つくり過ぎたでしょうか笑
けれど、分かりやすいですよね、この「見捨ててしまった」という罪悪感は。
先の例でいえば、「あの人は大丈夫だっただろうか…?」と気になって、せっかくの推しのコンサートが心底楽しめなかったりしますよね。
これが見知らぬ人でもそうなのですから、身近な人、家族や友だち、パートナーに対して、こうした「見捨ててしまった」という罪悪感があると、それは強烈なものになります。
この「見捨ててしまった」という罪悪感の根源にあるのは、「助けられるのに、それをしなかった」という想いであり、後悔です。
先の例ですと、コンサートに遅刻してでも、その人に「大丈夫ですか、駅員さん呼びましょうか」と声をかけることは、物理的にはできたわけです。
しかし、それをしなかった。
それだけに、この「罪悪感」は強いものになり、自分を罰しようとしたり、自分を幸せから遠ざけようとしてしまうことになります。
「見捨ててしまった」という罪悪感には、「できるのにしなかった」という後悔があることは、意識しておく必要があります。
3.裏側にあるのは「見捨てられた」という怒り
さて、この「見捨ててしまった」という罪悪感。
この罪悪感を癒すことを考えるときに、大切な視点が一つあります。
「真実は反転のなかにあり」、という金言があります。
それに倣うならば、「見捨てたのは、どちらだろう?」という問いかけは、考える価値があるものだと思います。
「見捨ててしまった」と、あなたが感じているとしたら。
その裏側で、「(自分が)見捨てられた」と感じていることは、ありませんでしょうか。
それは、「見捨ててしまった」相手と同じ場合もあるでしょうし、違う相手の場合もあるでしょう。
「見捨ててしまった」という罪悪感だけを癒そうとするのは、それはある意味で、ものごとの半分しか見ていないのかもしれません。
だから、どれだけ癒そうとしても、半分までしか癒えないわけです。
その裏側にある、「見捨てられた」という痛みと向き合うことで、癒しは加速します。
「見捨てられた」という痛みは、ある種の怒りでもあります。
「どうして、私を見捨てたんだ」
「あなたには、私を助けられたのに」
そのような怒りが、「見捨てられた」という感覚にはくっついてきます。
そうした怒りや悲しみ、やるせなさ、絶望感といったものを、まずは安全な場所で吐き出すことは大切なことです。
その上でなのですが、ほんとうに、その人は「助けられた」のでしょうか。
そのとき、その相手は、ほんとうにあなたを「助けられる」状況だったのか?
それは、よくよく考えてみる必要のある問いかけだと思います。
もし、「助けたくても、それができない状況だった」のであれば。
それは、必ずしも「見捨てられた」と言い切れないのかもしれません。
その人は、あなたを見捨てるつもりなんて、決してなかった。
なんとかして、あなたを助けようとして、必死だった。
その結果は、あなたの望むものではなかったかもしれません。
けれども、あなたを見捨てるつもりなんてなかったことは、真実なのかもしれません。
そんな風に、「見捨てられた」という痛みを癒していくことができると、その裏側にある「見捨ててしまった」という罪悪感もまた、必然的に薄まっていきます。
もちろん、「あなたは見捨ててなんか、いないんだよ」と、自分に対して声をかけることも大切なことです。
しかし、その裏側にある「あの人は、決してあなたを見捨てなんかいないんだ」という解釈は、その罪悪感を癒すことを助けてくれるようです。
今日は、「見捨ててしまった」という罪悪感の裏側にある、「見捨てられた」という怒り、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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