「祈り」とは、その対象に想いを寄せ、愛を贈ることを指します。
それは、結果を期待するのではなく、非指示的なものであり、それゆえに自分自身もまた幸せを感じることができる心のはたらきです。
1.相手の幸せを祈るとき
昨日の記事では、相手の幸せを祈るとき、私たちは幸せを感じることができる、というテーマでお伝えしました。
誰かの幸せを祈るとき、私たちはとても大きな幸せを感じることができる。 - 大嵜直人のブログ
「手放し」というテーマを、ここのところ続けております。
「手放し」は、握りしめていた執着を手放し、自分に自由を与える心のありようを指します。
無理やりに執着をはがすのではなく、握りしめていた手をそっと開いて放す、そんなイメージです。
相手にも、自分にも選択肢を与え、自由を与えるわけですね。
それは、「許し」にも似ている面があります。
「許し」は、そのできごとや相手を、「自分が」100%主体的に受け入れる、そんな心のありようを指します。
一般的に言われる「許してあげる」といったニュアンスとは、少し違いますよね。
そんな「許し」と「手放し」ですが、似ているのは、手放したあと、許したあとの、その相手やできごとに対する情感でしょうか。
「手放し」が進むと、そのできごとに感謝したり、あるいはその相手の幸せを祈ることができるようになります。
「許し」もまた、同じです。
あのできごとがあったおかげで。
あの人がいたおかげで。
「許し」が進むと、そんな想いを抱く時間が増えるものです。
自分ではない、誰かの幸せを祈るとき、私たち自身もまた、大きな幸せを感じます。
「手放し」も「許し」も、私たちをそうした方向に導いてくれるものです。
2.非指示的な「祈り」の効用
誰かの幸せを祈るとき、私たち自身も幸せを感じる。
心の世界の、実に不思議で、素敵な原理です。
しかし、注意しないといけないのは、この「祈り」が指示的になると、それは「期待」になり、執着になってしまう可能性がある、ということです。
指示的、というのは結果を求めたり、何か現実的な変化を願ったりすることです。
さしずめ、私が中京競馬場に行く日に、近所の神社で「今日は万馬券を当てることができますように!」と手を合わせるのは、非常に指示的なものであり、「期待」に近いものです。
なんとなく、イメージがつくでしょうか笑
しかし、「期待は裏切られる」の格言の通り、「期待」を強く持ちすぎると、ロクなことがありません。
「期待」した結果にならなければ、失望したり、自分を責めたり、他人を攻撃したりしたくなります。
もし「期待」した通りになったとしても、ことさらに執着が強くなり、ずっと「期待」し続けることになります。
「祈り」は、そうではありません。
それはどちらかというと、「想いを寄せる」という表現の方が、近いでしょうか。
もう少しベタな表現ならば、「愛を贈る」という表現もできます。
ふっと、別れた恋人のことを思い出して、元気にしているかな、と想いを寄せる。
昔飼っていたネコと過ごした時間を思い出し、懐かしむ。
そこに、何か指示的な要素はないと思います。
ただ、その対象に愛を贈る。
もちろん、その相手が幸せだと聞いたりしたら、とてもうれしいものです。
けれど、「祈り」には、そうした結果や現象面への強いこだわりはありません。
ただ、その対象に想いを寄せる。
「祈り」とは、非指示的なものです。
3.だから手放し、許すこと
これが、執着していたり、未完了の感情が残っていると、なかなかそう思えないものです。
「やっぱり自分に振り向いてほしい」とか、
「もっと一緒に過ごしたかった」とか、
そうした想いが湧き出てきてしまうことが多いものです。
はい、私の万馬券と同じく、実に指示的ですよね笑
「手放し」にしても、「許し」にしても、そうした執着から私たちを解き放ってくれるものです。
そのこと自体に、相手をコントロールしたり、現実を動かしたりする直接的な力があるわけではありません。
ただ、結果的には、自分が幸せを感じる時間が増えることが多いのです。
これが、「手放し」、「許し」が必要な、最も大きな理由です。
心理学を学ぶにしても、カウンセリングを受けるにしても、自分らしく、幸せに生きるために、それをすることが多いのではないでしょうか。
だから、「手放し」や「許し」が、カウンセリングの中核的なテーマになるのは、そのためです。
今日は、「祈り」とは、非指示的に想いを寄せること、というテーマにしてお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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