自分のなかに「罪悪感」があると、自分を責めたりするばかりで、意識が過去に縛りつけられます。
そうすると、身動きができなくなり、いまを生きることができなくなります。
それを緩めるためには、「そのできごとから、何を学ぶのか」という視点が大切なようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.罪悪感では「知恵」は学べない
すべてのレッスンはそこから知恵を学ぶために存在しています。
けれども罪悪感があると、それを理由に学ぶべきレッスンから遠ざかってしまいます。
自分自身を攻撃したり罰したりして、過ちをつぐなおうとするのです。
すると一歩も先に動けず、ずっと、そこに停滞したままになってしまいます。
もし子供のときに、まちがいや失敗をするたび、いちいち全部自分を罰していたらどうなっていたと思いますか。
きっとあなたは歩くことさえ学べなかったことでしょう。
罪悪感はあたかも知恵のように見えます。
しかし、レッスンを学ばないかぎり、いつまでも簡単な訂正をしない自分を罰しつづけることなのです。
そこからレッスンを学びとろうとする心があればおのずとまちがいは正され、それが知識や知恵になります。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.255
2.「罪悪感」は人を過去に縛りつける
今日のテーマは、「罪悪感」でしょうか。
ここでも何度も取り上げてきた「問題のデパート」ですが、また違った角度からお伝えできればと思います。
「罪悪感」の心理のおさらい
「罪悪感」とは、自分は悪いことをしてしまった、誰かを傷つけてしまった、というように、自分自身に対して罪の意識を持つことを指します。
それゆえに、自分を罰しようという意識が働きます。
罪を犯したがゆえに、それを償うために、罰を受けないといけない、と。
そのため、自分を追い詰め、幸せにしない選択を取ってしまうようになります。
「罪悪感」が怖ろしいのは、多くの場合において、それを自覚できないことにあります。
いろんな場面で、私たちは「罪悪感」を覚えます。
誰かを傷つけてしまった、または何かを壊してしまった、という加害者の心理は、まだ分かりやすい部類です。
困っている人を助けられなかった、力になれなかった、という無力感や、誰かを見捨ててしまった、という心理もありますね。
あるいは、自分は汚れている、自分は毒である、という観念もありますね。
少し自覚しづらいところでは、自分が恵まれていることへの罪悪感、あるいは親、社会、時代背景から受け継いだ罪悪感というものもあります。
少し考えるだけでも、これだけたくさんの「罪悪感」がでてくるようです。
「罪悪感」というのは、文字にするとおどろおどろしいですが、私たちにとって非常にありふれた感情でもあります。
罪悪感があると、過去に学ぶことができない
さて、そうした「罪悪感」を持つことの弊害は、いろんな場面で出てきます。
先に述べたような、自分を罰するように追い込んだり、自分が幸せにならないような選択をしたり。
いわば、気づかないうちに自分を不幸せにしていくのが、「罪悪感」の恐ろしさです。
そんな「罪悪感」の弊害の一つとして、「知恵」を学べなくなる、という視点があります。
「罪悪感」を感じるとき、人は何らかの過去を見ています。
誰かを傷つけてしまった。
何かを壊してしまった。
大切な人を笑顔にできなかった。
愛する人を汚してしまった。
…というように、その視点は過去に向いています。
言い換えると、その過去に「執着」している、とも言えます。
「執着」をしていると、なかなか「いま」を生きられません。
同じように、「罪悪感」を抱えていると、その人の意識は過去に向き、「いま」の自分を縛りつけ、一歩も動けなくしてしまいます。
人は、まちがいを犯すものです。
そして、この世で望まない悲しみや苦しみに出会うこともあります。
それは、事実です。
しかし、そこから何を「知恵」として学ぶのか。
そこに、人としての知性、あるいは尊さがあらわれます。
もし子供のときに、まちがいや失敗をするたび、いちいち全部自分を罰していたらどうなっていたと思いますか。
きっとあなたは歩くことさえ学べなかったことでしょう。
まさに、引用文の通りですよね。
過ちやまちがいを犯した自分を、罰しようとしないこと。
そして、もしかしたらそれは、過ちでもまちがいでもなかったのかもしれないのですから。
3.私はそこから何を学ぶのだろう、という視点
愛があるゆえに、「罪悪感」も感じる
「罪悪感」は、人にとって非常にとってありふれた感情だ、と先に述べました。
それは、ある意味で厄介なことですが、ある意味で人の尊さ、美しさを示すものでもあります。
なぜなら、人は、大切なものにしか、「罪悪感」を抱かないのですから。
どうでもいいことで、私たちは悩みません。
どうでもいいことで、私たちは自分を責めたり、罰したりしません。
「罪悪感」を覚えることがあるのだとしたら、それは、その人の愛の裏返しでもあります。
それだけ愛が深いからこそ、「罪悪感」に苛まれたりする。
だから、「罪悪感」は悪いものであり、なくさないといけない感情だ、とは思わなくていいのだと思います。
それよりも、そんなにも自分を責めて、罰するほどに、大切に想う誰かや何かがあった。
そちらに、光を当てる方が大切かな、と私は思います。
とはいえ、「罪悪感」を持っているとしんどいのは間違いないのですが。
Mr.罪悪感たる私も、いつも「いらないなぁ…」と思っています笑
そのできごとから、何を学ぶのか?という視点
さて、そのように「罪悪感」に光を当てるために。
引用文にある通り、「そのできごとから、何を学ぶのか?」という視点が大切になります。
そこからレッスンを学びとろうとする心があればおのずとまちがいは正され、それが知識や知恵になります。
私たちは、生きている限り、学び続けることができます。
学ぶとは、知識や知恵を得ることとは、自分を変えていくことです。
新しい一歩を、踏みだしていくことです。
どんなできごとであれ、そこから何かを学ぶことはできます。
何かを学ぶとは、絶え間ない自己変革であり、それがゆえに、自分を過去に縛りつけることから遠ざけてくれます。
未来は変えられるが、過去は変えられない。
そう言われることがありますが、真実は逆のように私は思います。
いま、この瞬間に未来をどうにかすることはできないけれど。
過去の解釈を、変えることはできる。
人生最悪と思っていたできごとは、人生のもっとも偉大な喜劇に変えられる。
そのためには、過去から何を学ぶのか、その過去にどう価値を見出すのか、という視点が、大切だと思います。
そして、なかなかそれは、自分一人では気づけないものです。
罪悪感はあたかも知恵のように見えます。
後生大事に握りしめていた知恵が、実は「罪悪感」の塊だったりします。
ただ、何度も書いていますが、「罪悪感」があるのは、悪いことではない。
むしろ、愛が深いゆえに。
その「罪悪感」を抱くことになったできごとに、光を当てること。
それが、私がカウンセリングでしたいことの一つです。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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