「助けられなかった」という罪悪感の裏側には、「助けたい」という才能レベルともいえる強い想いがあるものです。
それを無自覚に使うのではなく、それを求めている人に向けてみてはいかがでしょうか。
1.「罪」と「誤り」
昨日の記事では、「罪悪感」と大きな誤解、というテーマでお届けしました。
ほんの小さな過ちをしたら、愛を受けとってはいけないという大きな誤解。 - 大嵜直人のブログ
「罪悪感」とは、自分は悪いことをした、自分は悪い人間だ、という感覚を指します。
そのため、自分に罰を与えようとしますし、自分を幸せから遠ざけるような行動や選択を取ってしまうようになります。
そうした「自分は悪い」という観念は、何がしかのできごとから生まれるものです。
その多くは、自分のせいで大切な人を悲しませたとか、笑顔にできなかったとか、そういった痛みのともなう体験です。
自分の力が足りなかったせいで。
自分が余計な一言を言ったせいで。
自分が我慢すれば済んだのに。
そうしたできごとや体験から、私たちは「罪悪感」を抱くようになります。
しかし、果たしてそうしたできごとは、「自分を罰しないといけない罪なのでしょうか?」という問いが、昨日のテーマでした。
もしかしたら、それは「罪」ではなく、小さな「誤り」なのかもしれません。
誤り、過ち、ミス。
機械ではない私たち生身の人間は、間違いを犯すものです。
私も、勘違いや間違いばかりで、先日は歯科検診の診察時間を間違えました。
手帳にも「14時」と書いていたのに、その手帳を見ずに、なぜか「15時」と思い込んでいたら、歯医者さんから「どうされましたか?」と電話がかかってきてしまいました。
「すいません!すぐ行きます!」と、慌てて歯磨きをして向かいました笑
間違いをしてしまったとき、それを認めて正して、気をつけるしかありません。
私も、歯医者の先生にお詫びして、これから気をつけます、とお伝えしました。
しかし、私たちは、ある種のできごとに対して、それを「罪」だととらえて、その代わりに自分に罰をずっと与えようとしてしまうことがあります。
何か誤りをしたら、周りからの愛を受けとってはいけないというのは、大きな誤解ではないでしょうか。
昨日の記事では、そんなテーマをお伝えしました。
2.「助けられなかった」という罪悪感
「助けられなかった」のは「罪」なのか
さて、今日はそんな「罪悪感」のなかでも、「助けられなかった」という罪悪感について、少し考えてみたいと思います。
この「助けられなかった」という罪悪感は、非常に分かりやすいものであり、それだけに罪の意識も強く持ちやすいものです。
「友だちがお金に困っていたのに、それを解決してあげられなかった」
「両親の仲が悪かったけれども、何の手助けもできなかった」
「よく面倒を見ていたペットが、看護の甲斐もなく亡くなってしまった」
いろんな場面がありますが、どれも私たちの心に深く罪の意識を植え付けるものです。
さて、先ほどの視点で見るならば、こうした「罪悪感」も、やはり「誤り」なのでしょう。
たとえ、お金に困っていた友だちを助けたかったとして、それができなかったとしても、別に「罪」ではないのでしょう。
もちろん、助けることができれば、それが一番なのでしょう。
けれども、たとえそれができなかったとしても、それが「罪」かと言われると、そうではない気がします。
スーパーマンよろしく、誰もがいつでも助けられるわけではありません。
自分にその能力があるのかどうかという問題もありますし、そもそも相手がそれを求めていたのか、という問題もあります。
昨日の記事のように、それが「誤り」であれば、正せばいいだけなのでしょう。
それを前提としたうえで、今日は少し違う視点でも見てみたいと思います。
「助けられなかった」という想いを持つのは、誰か?
今日のテーマとしては、「そもそも、『助けられなかった』という想いを持つのは、どんな人か?」という視点です。
「罪悪感」もそうなのですが、そもそも論的な話といえるかもしれません。
どんな人が、「助けられなかった」という想いを持つのでしょうか?
…ぜひ、少し考えてみてください。
どんな人でしょうか。
「は?何言ってんの?そりゃ、『助けたい人』に決まってるじゃん。日本語遊びがしたいの?」
と思われるかもしれません笑
でも、そうなんです。
「助けたい人」しか、「助けられなかった」という想い、罪悪感を持たないんです。
「え?当たり前じゃん?」と思われた方。
それ、当たり前じゃないんです。
「助けたい」という想いがなければ、「助けられなかった」という罪悪感は生まれません。
これ、当たり前すぎるほど当たり前なんですが、当事者になると、見落としてしまいがちな視点です。
「お金に困っていても、自分でなんとかするべきだ」と考える人は、同じ状況にあっても、罪悪感を持たないんです。
「え?」と思うかもしれません。
でも、そう考える人にとっては、「罪悪感」を持つ人の方が、「え?」なんです。
当たり前じゃないんです、その「罪悪感」は。
「助けたい」という想いがあるからこそ、「罪悪感」を持つんです。
そして、その想いが強ければ強いほど、その裏返しとして「罪悪感」もまた強くなります。
そう考えると、「助けられなかった」という罪悪感を持つ人は、「助けたい人」なんです。
3.その才能を求めている人に使いませんか?
才能を自覚しない怖ろしさ
自分にとっては息を吐くように当たり前だけれども、他の人にとっては当たり前ではないことは、「才能」と呼ばれたりします。
それゆえ「才能」は、なかなか自分では気づきにくいものです。
だって、当たり前のことなんですから、それをしていることに気づかないことすら、あるのでしょう。
先ほどの話でいえば、「誰かを助けられなかった」という罪悪感を持つ人は、「助けたい」という強い想いと才能を持っている人と言えます。
しかし、自分の「才能」を自覚しないことは、非常に危険なことです。
分かりやすいところでいうと、「才能」を自覚して受けとっていないと、周りから嫉妬されます。
「あの人はいいわよね。何の努力もしていないのに」みたいに、周りから疎まれます。
なんとなく、想像つきますよね。
高学歴の人が、「いやいや、自分なんてアタマのできが全然よくなくて…」と言うようなものでしょうか。
確実に、「いや、何の嫌味ですか?」となりますよね笑
そうした周りの嫉妬や軋轢もそうなのですが、自分の「才能」を自覚したいことで引き起こされるネガティブな面が、もう一つあります。
無自覚に、自分の「才能」を使って疲弊してしまう、という点です。
先ほども書きましたが、「求められてないのに、助けようとしてしまう」「自分の能力や限界を超えて、助けようとしてしまう」といったパターンです。
どんなに助けたい想いがあっても、それを相手が求めていなければ、「ただのおせっかい」「ありがた迷惑」「くそアドバイス」になってしまいます。
あるいは、自分の能力を超えて助けようとすると、「溺れている人を助けようとして共倒れ」のようなことになってしまうかもしれません。
これをお読みのあなたにも、思い当たる節は、ありますでしょうか。
私には、多々あります笑
それはさておき、その「助けたい想い」を自分の「才能」として自覚することは、そのような事態を避けることにもなります。
それを求めている人に、向けてみませんか
自分の「才能」として自覚することができれば、それを磨いていくこともできるでしょう。
また、それを必要としていない人に、無理に与えようともしなくなります。
そして、その「才能」を求めている人は誰か、という視点を持つこともできるようにもなるのでしょう。
それを、自分の大切な人に使うのでもいいですし、ビジネスとして仕事として、その想いを求めている人に与えることもできるのでしょう。
「才能」とは、誰かのために使うときに、最も美しく輝きます。
もし、あなたのなかに「助けられなかった」という罪悪感があるのだとしたら。
それは、あなたが当たり前のように持っている、「助けたい」という強い想いの裏返しでもあります。
その想いは、決して当たり前のものではありません。
ある種の「才能」と呼ばれるものです。
あなたは、その「才能」を、誰に分け与えたいでしょうか。
そして、その「才能」を求めているのは、どんな人でしょうか。
「助けられなかった」という罪悪感は強烈ですが、それだけに、その罪悪感と向き合う恩恵も大きいものです。
必ず、その「才能」を求めている人がいます。
かけがえのないあなたの力を、その人たちに向けてみてはいかがでしょうか。
今日は、「助けられなかった」という罪悪感、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
〇大嵜直人のカウンセリングの詳細・お申込みはこちらからどうぞ。
※ただいま1月度の個人カウンセリングを募集中となります。
〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。