週明けから秋雨ですね。
この雨でまた一段と涼しくなって、秋らしくなってくるのでしょうか。
雨音ひとつひとつに秋の深まりを感じながら、耳を澄ませるのもまた風流かもしれません。
今日はそんな日常の細部を見つめるというテーマの言葉を少し。
SNSに投稿するようになって、時にネタさがしという眼で毎日を見るときがある。
心躍るイベント、
とても美味しい料理の余韻、
いつまでも尽きない友人との会話、
はたまたハードラックな出来事・・・
そんな特別なことはなかなか起こらないかもしれない。
けれど、確実に毎日何かは「ある」。
どのような日常の繰り返しであれ、起きていることに意味づけをしているのは私自身。
考えてみると、これは「痛み」を癒すプロセスと似ている。
どうしようもない怒り、悲しみ、
凍えるような寂しさや孤独の奥底にあり、誰もが抱えている、普遍的で絶望的な「痛み」。
ただ、空を見上げること。
雨の音に耳を澄ませること。
咲いている花の匂いを感じること。
目の前の人をただ見ること。
息をしていることに気づくこと。
目を凝らして日常の細部をただ見つめることは、その痛みを癒してくれるように思える。
今、この瞬間は、大丈夫なのだ。私は息を吸い、吐いている。そのことを悟った私は、それぞれの瞬間に美がないことはありえないと気づくようになった。
とは、
ジュリア・キャメロン著「The Artist's Way(邦題・ずっとやりたかったことを、やりなさい)」の中の、私の大好きな一文。
2017.3.31
せっかくですので、ジュリア・キャメロンの名著からもう少し引用を続けます。
細部を見ることは、つねに癒しをもたらしてくれる。それは特定の痛み(恋人を失う、子どもの病気、打ち砕かれた夢など)への癒しとしてはじまるが、最終的に癒されるのは、すべての痛みの根底にある痛みである。リルケが「言葉で言い表せないほどの孤独」と表現した、誰もが抱えている痛み。注意を向けることによって、私たちは人や世界とつながる。
(中略)
心が痛んでいるときに、たとえば将来が怖くて考えられないときや、過去が思い出すのもつらいとき、私は現在に注意を払うことを学んだ。私が今いるこの瞬間は、つねに、私にとって唯一、安全な場所だった。その瞬間瞬間は、かならず耐えられた。
痛みと癒しについて、これほど簡潔かつその本質を突いている言の葉はなかなか見られないように思います。
キャメロンは、全ての痛みはその根源にある痛みから派生すると述べています。それはオーストリアの詩人・リルケの言の葉にもあるように、われわれがこの現象界に産まれ落ちたときから抱えているように思えます。
キャメロンの語る「特定の痛み」。それは、今ここにはありません。
恋人を失ったことは過ぎ去ったことですし、子どもの病気も打ち砕かれた夢も未来を憂いてのことです。私たちは過去を悔い、許せず、悩み、そして未来を憂い、恐れ、拒否をしている間に、大切な今を見失っているのかもしれません。
けれど、五感を澄まし、日常の細部を見つめることは、そんな私たちの意識を今ここに引き戻し、癒しをもたらしてくれます。
日々違う色の空を見上げる。
静けさの中に歌う鳥の声を聴く。
パンの焼ける香りにうっとりする。
顔を洗う水の冷たさを感じる。
一口のコーヒーの苦みを味わう。
その一つ一つを味わい尽くしてみてください。
どんな空の模様が、歌が、香りが、温度が、苦みがあるでしょうか。そこには悔いるべき過去も、憂うべき未来も、どうしようもない痛みも、割り込む余地はありません。
日常の細部を見つめることは、癒しをもたらします。
もしも、どうしてもそうすることが難しいときは、ぜひここへお越しください。お気に召される言葉が見つかるかもしれません。
どうぞ、ごゆっくりおすごしください。