大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「許し」の旅路の最後は、自分自身を許すこと。

「許し」とは、その相手やできごとを主体的に受け入れ、自分自身を罪悪感から解放する心のはたらきです。

それは、ある特定の相手やできごとから始まりますが、最終的に行きつくのは自分自身を許すことです。

1.「許し」と感情的理解

昨日の記事では、いまの自分と異なる立場から見ることで進む、感情的理解についてお伝えしました。

いまの自分と反対の立場から見ることは、感情的理解を進めてくれる。 - 大嵜直人のブログ

私たちは、その立場になって、はじめて相手の心情を理解したり、共感したりすることがあります。

親という立場であったり、先輩や上司という立場、あるいは惚れる側と惚れた側だったり。

「あのとき、相手はこんなことを感じていたのかな」

そのように思うとき、相手に対して感じていたものがポジティブに変化していくことがあります。

この、感情をベースにした共感、理解を「感情的理解」と呼んだりします。

それは、「あの人と同じ立場なら、自分も同じことをしたかもしれない」という情感になって表れることが多いものです。

この「感情的理解」のポイントは、その相手の言動の正誤善悪や、そのとき自分が感じたことをいったんカッコに入れておく、という点です。

感情的に理解をしたからといって、その相手の言動が正しいものだと判断する必要もありませんし、そのとき自分が感じたことが間違っていたとする必要もありません。

「そうはいっても、あんなこと言われて、私はとても悲しかった」

その悲しいと感じたことは、自分自身がいたわってあげることが大切です。

だから、「感情的理解」をしていくには、自分の感じている感情を十分に感じて、解放しておく必要あります。

自分の感情を無視して、相手を理解しようとしても、難しいものですから。

そうした感情を、自分で感じ切った上に、「感情的理解」は訪れます。

そこには、良いも悪いもありません。

それは、「ただ、そうせざるを得なかったのかもしれないな」という、とても静かな理解です。

そうした「感情的理解」の先に、「許し」もあるというのが、昨日のテーマでした。

2.「許し」が進むほどに、見方がポジティブに変わる

この「感情的理解」の先にある「許し」。

「許し」とは、何度もこのブログで書いてきていますが、その相手やできごとを主体的に受け入れることを指します。

それによって、誰かや何かを責めることから生まれる罪悪感から、自分自身を解放していくことができます。

「もし、あなたが幸せでないなら、誰かを許していない」

そんな金言もありますが、誰かを責めていると、そのことから生まれる罪悪感から、自分自身を幸せから遠ざけてしまうものです。

そして、自分が不幸になることで、その相手に復讐しようとしたり、あるいはその相手と真逆の人生を歩こうとしたり、自分の生を見失いがちになります。

「許し」とは、そうした罪悪感から私たちを解放し、自分自身の生を生きることを後押ししてくれます。

先ほど書いた「感情的理解」も、「許し」のプロセスの一部です。

その理解が進むと、何かに「感謝」できる時間が増えていきます。

そして、「許し」が進むほどに、恩恵を受けとることができるのです。

その恩恵とは、自分自身の才能や光だったり、親密なパートナーシップだったり、つながりであったり、あるいはライフワークだったりするのでしょう。

それは先々のお楽しみとして、「許し」が進むほどに、ものごとに対する見方が変わっていきます。

先の「感情的理解」でも書きましたが、その相手に対して感じるものが変わっていくものです。

この、ものごとの見方がポジティブに変わることを、癒し、と呼んだりもするのでしょう。

3.最終的に許すのは、自分自身

さて、「許し」の対象とは、ある特定の相手だったり、できごとを対象にしてはじまります。

たとえば、どうしても許せないふるまいをした恋人だったり。

あるいは、大切な人を奪った天災だったり。

しかし、「許し」が進むほどに、その対象は変わっていきます。

別れた恋人のはずが、初めてつきあった相手になったり。

あるいは、兄弟姉妹や父親、母親になったり。

私たちの「許し」の旅路は、終わりのない旅路といえます。

それでも、最後に行きつくのは、自分自身になるのでしょう。

最も許すことが難しいといわれるのが、自分とも言われます。

「許し」の終着点とは、自分自身を許すことに他なりません。

そう考えていくと、結局のところ、許せないあの人も、できごとも、自分自身を許すために立ち現れるプロセスの一部なのかもしれません。

 

このことを想うとき、私はジュリア・キャメロン著「The Artist's Way(邦題・ずっとやりたかったことを、やりなさい)」のなかの一節を思い出します。

少し、引用させていただきますね。

細部を見ることは、つねに癒しをもたらしてくれる。

それは特定の痛み(恋人を失う、子どもの病気、打ち砕かれた夢など)への癒しとしてはじまるが、最終的に癒されるのは、すべての痛みの根底にある痛みである。

リルケが「言葉で言い表せないほどの孤独」と表現した、誰もが抱えている痛み。

注意を向けることによって、私たちは人や世界とつながる。

癒しとは、ある特定の痛みへの対処として、はじまります。

けれども、最終的に癒されるのは、「すべての痛みの根底にある痛み」であると、キャメロン氏は言います。

どこか、「許し」の終着点にあるのは、自分自身を許すこと、という構造と似ている気がします。

 

「許し」の旅路は、きっと私たちが一生をかけて歩いてく道なのでしょう。

だから、昨日今日許せなかったとしても、あせらなくてもいいのだと思います。

ゆっくり、歩いて行けばいいのですから。

今日は、「許し」と「癒し」についてお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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