どうも昨日はお騒がせしました。
今日は、空梅雨の時期の言葉を。
入梅したとたんに続く晴天。
乾いた紫陽花は心なしか寂しげだ。
やはりこの薄紫色のグラデーションの花には、小さな命のような雫がよく似合うように思う。
水不足や穀物の心配もしてしまう。
けれど、朝夕涼しく傘のいらないこの気候が、もう少し続いて欲しいとも思う。
人のこころはいつも紫陽花のようにグラデーションだ。
空梅雨も、長雨も、ただ在るだけ。
きっとすべては必然で、完璧で、無駄なものは何一つなくて。
なんとかなるし、なんとでもなる。
2017.6.14
空梅雨も、長雨も、雨の多い夏も、そこに意味はありません。それに水不足の心配や、梅雨らしさや、過ごし易さといった、いろんな感情を貼り付けているのは、私たち自身です。
空梅雨の紫陽花を見て、
やはり雨に濡れる方が美しいと思うのも、
水不足の心配をするのも、
高い湿気よりも過ごし易いと感じるのも、
全てはそれを見ている私たちのこころです。
そしてそのこころは、紫陽花の花の色のように日々グラデーションを彩ります。秋の空のように日々移り変わる、そのグラデーションの中で私たちは外の世界を見ているのかもしれません。
けれど、
その紫陽花は、ただそこに咲いているだけで、
その雨も、ただしとしとと降っているだけで、
その雲も、ただ形を変えながら流れていくだけです。
そんな風に、ただそこに在るものを受け入れることができたら、
きっとなんとかなるし、
なんとでもなる。
そう思えるようになるように思います。
なんとかなるし、なんとでもなる。
一昨日の「Good Riddance」と同じように、素敵な言の葉です。
どうぞごゆっくりおすごしください。