時に処暑、あるいは禾乃登(こくものすなわちみのる)。
「禾(のぎ)」の字は穀物の穂先の毛を表し、稲が実り始めるころ。同時に、秋の台風が訪れる時期にも入っていく。
三重県の知人の田畑は、もう新米の収穫が始まったと聞く。
例年よりも数日から一週間ほど、遅めの収穫だそうだ。やはり、今年のお盆あたりの長雨が、効いたのだろうか。
しばらく、少し夏が戻ったような暑さが続いていた。
けれど月が変わって長月になったら、また曇り空の日が続く。
そんな長月のはじめ、熱田神宮を訪れた。
前日は雨予報だったが、なんとか降らずにいてくれたようだった。
ついたちに来ると、参拝者も多いのだが、二日だとやはり人もまばらなようだ。
人気の少ない参道を、玉砂利の音を聴きながら、ゆっくりと歩く。
ともすれば流れていってしまう日々の中で、この時間が心地よい。
もちろん参拝に来てはいるのだが、ただ歩き、ただ手を合わせる時間が、心地よい。
日々何かに追われ、何かをこなし、何かをする。そうした行動とは、反対の極にあるような時間が、ほしくなる。
動と静、陰と陽。
何ごとも、バランスなのかもしれない。
境内に響き渡る、元気な鶏の鳴き声。
しばらく歩いていると、今日も出迎えてくださった。
今日もおじゃましております、と頭を下げると、肩を切ってのさのさと歩いて行かれた気がした。
おぅ、ご苦労。
まぁゆっくりしていけや。
とでも言われたような気がした。
はい、ゆっくりさせていただきます。
本殿に参拝し、こころの小径にも足を伸ばす。
湿り気のある空気に、汗が吹き出てくる。
そういえば、先月も雨の中の参拝だったことを思い出す。
晴れの日は晴れの日の。曇りの日は曇りの日の。雨の日は雨の日の。
定期的に通うと、季節の移ろいとともに、さまざまな美しさを見ることができるのが、いいものだと思う。
参拝を終えて境内横のきよめ餅本舗に寄ったら、栗蒸し羊羹が、もう並んでいた。
秋、来たる。
そんなことを考えながら歩いていると、小さな紫が目に留まった。
萩の花だろうか。
秋、来たる。
私はもう一度、その言葉を想いながら、長月の熱田さんを歩いた。