台風が過ぎ去ったあとは、秋の空模様ですね。
われわれには測り知れないエネルギーで大気をかき混ぜることで、より一層秋らしく空は高くなり、空気は澄んでいくようです。
その晴れ渡った秋の空を眺め、その澄んだ空気を吸うだけで、心は軽くなり癒されるようです。秋になると行楽に出かける人が多くなるのは、気温だけでなくそんな理由もあるのかもしれませんね。
さて今日のテーマは、そんな「癒し」の音楽についてです。
Enya / アルバム"a day without rain"より"Wild Child"
20歳前後のころ、Enyaをよく聴いていた。
数百回のレコーディングによって録音した歌声を、重ねあわせることによって創りだされたと伝えられるその音楽は、心地よさに包まれていた。それは聴くたびに胸の奥底に眠る何かを抱きしめては、優しく去っていった。
当時、流行っていた「癒し系音楽」や「ヒーリングミュージック」の系列に必ず名を連ねていたEnya。
漠然とその包み込まれるような優しさと、波間の水面に揺蕩うような情感が「癒し」だと思っていた。
けれど個人的に振り返って思うに、「癒し」に至るまでのプロセスは、そうした想像とは全く異なっていた。
「癒しとはものの見方を変えること」とは「癒し」についての一つの捉え方だが、もしそこに癒せない傷があるとすれば、そこには手放せない見方があるのかもしれません。
思い出したくないほど痛かった。
受け止められないほどに悲しかった。
そんな傷を二度と負わないために、そんな傷を見ないように。強固に強固に確立した見方、ルール。
そのルールの執着をいったん手放してみること。
それは、本当に、えげつなく怖い。
それまで自分を守ってきてくれた盾と鎧を脱ぐような、ぱっくりと開いた傷に手を突っ込んで無理矢理外気に晒すような、
そんな錯覚に陥る。
けれどもそのルールを手放した先にあるものは、自由で楽で自らの生を謳歌する、ありのままを、あるがまま。そんな感覚。
表現者としてのEnyaが、あの天衣のように柔らかな「癒し」と称される音楽を自らの世界として表現するまでに、どれだけの自らの内面における葛藤と戦いを終わらせてきたのだろうかと思う。
昔好きだったWild Childを最近また聴いていたら、歌詞がまさにその癒しの先にある感覚に似ていた。
2017.9.5
人は18歳前後によく聴いていた音楽を、ずっと聴き続けると聞いたことがあります。懐メロの特集などがなくならないのも、そんな人の習性からくるものなのかもしれません。当店でお出しする音楽も例に漏れず、私がその年代だった1990年代の音楽が多くなりますね。
さて、今日の言の葉のEnyaさんです。
ヒーリング・ミュージック、癒し系音楽の代表的存在として、日本でも大ヒットしました。標題の「Wild Child」は映画「冷静と情熱のあいだ」の主題歌となってヒットしました。竹野内豊さんのお顔とともに思い出される方も多いかと思います。
「Wild Child」に限らずEnyaさんの音楽を聴いていると、心地よく、包み込まれるような優しさを覚えます。ヒーリング・ミュージックと呼ばれるのも頷ける気がします。
それでは、よく使われるその「癒し」とは何でしょうか。
字面通りの意味からすると、肉体的・精神的な痛みを和らげるもの、と定義されます。そこには優しい、ふんわりした、やわらかく、あたたかいものがイメージできそうです。私もそのように思っていました。
しかし翻ってみると、人が生きていく上で負った傷が癒される過程において、そのような優しい過程だけではないと私は思うようになりました。時になまなましい傷跡を、外界にさらす過程があるように思うのです。
人は自らが負った傷が深いほど、それを守るためのかさぶたを作ります。
ひどい失恋をした人は、もう恋なんてしない。
こっぴどく誰かに裏切られた人は、もう誰も信用しない。
借金したりお金に振り回された人は、お金は怖いものだ。
身近な人との死や別れを経験した人は、もう人と親密にならない。
そんな強固なかさぶたをつくり、自らを守ります。それはもうこんな痛みを二度と味わいたくない、そんな痛みを避ける防衛本能からくるものなのですが、そのかさぶたが厚くなりすぎると、それ自体が腐ってきます。
もう恋なんてしないと言いながら、他人の恋愛を羨む。
誰も信用しないと言いながら、自分が信用されないことに憤りを感じる。
お金は怖いものだと言いながら、その怖いものを欲する。
人と親密にならないと言いながら、凍えるような寂しさを抱える。
それが臨界点に達してかさぶたを剥がすことが、「癒し」と呼ばれるものなのかもしれません。
それは、今まで自分を守ってきてくれた盾と鎧を脱ぎ捨てるようで、途方もない怖さがあります。それがあったから今までやってこれたのに、もし捨ててしまったらどうなるの?と。今までそれを信じてきた分だけ、反比例してえげつない怖さを覚えます。
けれど、脱ぎ捨てる地点は必ず来るのです。なぜなら、その鎧と盾を持ったままではもう生きられないから。そして脱ぎ捨てて裸足になってみると、こんな世界が見えてくることもあります。
私は愛し愛される喜びを味わっていい。
自分が自分を信頼していれば、裏切られることはない。
お金は幸せと楽しみを与えてくれる魔法の翼だ。
親密になる喜びは、失う恐れをも包み込んでくれる。
私を傷つけるものばかりで醜いものだった世界は、実は優しく、また美しいものだと気づくのです。
・・・そんな見方の転換が、「癒し」と呼ばれるものだと私は思っています。
そしてEnyaさんは、その「癒し」が起こった先の世界を奏でているように見えます。どんなに優れた表現者であれ、受け手の価値観を勝手に変えることはできません。けれど、優れた表現者たちは自らが辿り着いた地点を表現することで、道を示すことを行うと思うのです。
「Wild Child」を聴く度に、Enyaさんが到達した「癒し」の境地に導かれているように思えます。当時20歳前後だった私は、将来その境地を求めることを知っていたのだろうかと不思議な気分になります。
本当に、必要なものは必要なときに与えられるようです。
さて、だんだんと夜も長くなってきました。Wild Childの癒しの世界に身を委ねながら、グラスを傾けるのも一興です。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。