大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

愛された場所とその記憶を思い出すことは、大きな恩恵を与えてくれる。

今日もご来店頂きありがとうございます。

そういえば昨日は敬老の日でした。

こうした歳時記や何かにつけて、思い出される記憶というものがありますね。家族のこと、友人のこと、大切な人のこと、何度も通った道、頑張ったイベント、愛された場所。

今日はそんな記憶をテーマにした言葉を。


 

もっぱらクルマよりもデンシャ派だった。

「シンカンセン」も「あかいめいてつとっきゅー」も、「じぇーあーる」も「かもつれっしゃ」も見られるこの「たこーえき」に、幼かった私は祖母によく連れてきてもらい、日がな一日デンシャを眺めて過ごした。

なぜあんなにも飽きずに眺めて過ごせたのだろう。日陰のベンチで、単行本の小説を読んで一日待っていてくれた祖母を思い出す。

息子は父と違ってクルマもデンシャも大好きだが、同じようにこの駅を気に入ったようだ。

そんなことを思い出しながら、昨晩の深酒をたたる宿酔いの午後。

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2017.7.29


 

「たこーえき」は名古屋鉄道本線の栄生駅です。

名古屋駅に近いので、新幹線はもちろんJRもJR貨物も名鉄も、いろんな電車がひっきりなしに通るため、デンシャ好きにはたまらないスポットです。

私はおばあちゃん子でした。

父も母も働いていましたので、学校から帰った私を迎えてくれたのはいつも祖母でした。その頃の記憶では、陽だまりの中、穏やかな表情でごぼうをささがきしている祖母と、母親の帰りを待つ風景がよく思い出されます。そうした子ども時代の記憶をたどって、思い出の場所に大人になってから訪れるのは、また子ども時代と違った情感を思い起こさせます。 

 

「受け取ること、与えること」でお話ししましたが、「受け取ること」をすると、停滞していた人生が大きく動き出しました。それは子供の頃には気付かなかった、親や祖父母、周りの人の愛情に気付けるようになったからでもあります。

往々にして、親が与えたい愛と、子どもが求める愛の形は異なり、すれ違いが起こります。多くの人はそれで思春期、反抗期を経て親から離れて自立するのですが、成人して大人になるにつれて、「あれは親の愛情表現だったんだな・・・」と気付くことが増えてきます。

子どものときはお猪口くらいのものしか受け取れなくても、大人になると器が広がって、グラスやジョッキで愛情が受け取れるようになります。それは時を経るにしたがって、大人になったり仕事をしたり親になったり、いろんな立場を経験するからなのでしょう。

もちろん、親との関係は最もパワフルかつ難しいので、父親、母親との葛藤や苦悩を抱えておられる方もいらっしゃるかもしれません。また私のように両親を亡くしていたり、あるいは別々に暮らさざるをえなかったり、その関係は千差万別であることは確かでしょう。そのような他人には窺い知れない関係の中で、急に「受け取る」ことをしようとしても難しいことがあります。

 

そんなときは、「自分を愛してくれた人を探す」ことをすることから始めてもいいのかもしれません。

私たちは、誰かに愛されなければ大人になることはできません。

パンとミルクだけでは大人にはなれません。

飽きるまで話を聞いてくれた人。

やさしく抱っこしてくれた人。

自分の笑顔を幸せそうに見つめてくれた人。

あたたかい手をつないでくれた人。

ぜひ、そんな人たちを思い出してみてはいかがでしょうか。

できれば、私にとっての栄生駅のように、愛された場所で。

そうしていくうちに、もしかしたら傷ついた言葉や態度、すれ違いが、全て愛からだったのだと受け取れる瞬間がくるのかもしれません。

 

さて敬老の日は過ぎてしまいましたが、お客さまにとって、愛してくれた人はどなたでしょうか。その方は、どんな愛し方でお客さまに与えてくれていたでしょうか。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。