いらっしゃいませ、ようこそおこしくださいました。
今日は私が写経を日課にしているチャック・スペザーノ博士の名著「傷つくならば、それは愛ではない」の一節から。
「あなたに助けを求めてくる人は、あなたを救いにきた人」
ふつうなら自分が傷ついているとか、何かが完了していないとか、なかなか気づくことはできません。
表面上には癒されているように見えても、内面には未完了のまま残っていることがよくあります。
あなたに助けを求めてくる人は、あなた自身の一部を癒すのを助けてくれる人なのです。
そこであなたがその人に与えるアドバイスは、じつはあなた自身こそ一番必要としていたものだったときづくのです。
本書の中のちょうど真ん中あたり、第180日に出てくる一節です。
これは誰にとっても非常に思い当たる節の多い金言なのではないでしょうか。
以前、このブログを辿って、ある方から悩みをお送り頂いたことがあります。
その悩みは仕事場での自分の扱いの酷さについてのものでしたが、色んなお話を伺っていくと、その根底には両親との関係への葛藤があるようでした。
ご両親との関係を希薄に希薄にしようとして、距離を置いていたようなのですが、そこから噴き出るどうしようもない寂しさは、その方の言の葉の節々から感じられました。
ご両親との関係を少し見つめてもいいかもしれない、と少し具体的な方法をお伝えして、その会話は終わりました。
その会話が終わってから、私は誰に話していたのだろう、と我に返りました。
まぎれもなくその会話は、まだ私の中の癒されていない部分へのアドバイスであったのです。
「助けを求めにくる」というと、限定的なシチュエーションになってしまいますが、少し目を広げると、たくさんのことが同じことを示してくれます。
このブログにしてもそうです。
日々何かを思いついて書くことは、すべて「いまの」私にとって必要な言の葉のようです。
これは、ブログを書き続けて私が最も実感していることです。
アウトプットを続けることは非常にいい習慣ということはよく言われますが、そんな理由があるのかもしれません。
「これを必要としてくれる誰かのために」という情報発信をするスタンスはもちろんそうなのですが、「実はその内容を一番必要としているのは自分自身」ということに気づいてからは、もうカッコつけず降参して書くようにしています。
「助けを求めにくる」ということをもっと視点を広げてみると、自分の周りに誰かの怒りや悲しみが聴こえたときも、同じことなのかもしれません。
その誰かが「とても親しい家族」であっても、「ニュースの画面に映る遠くの凄惨な事件の被害者」であっても、その怒りや悲しみが聴こえた自分の奥底にも、必ず同じ傷と痛みが横たわっている。
その人は、まだ自分が自覚していない自分の傷や痛み、悲しみを、きっと教えてくれている。
目に映る世界の全てが、自らを余すことなく映し出す投影であるとするなら、きっとその人が自分の世界に現れた意味はそういうことなのかもしれない。
誰かの怒りや悲しみが聴こえたとき。
それは、自分の奥底にある傷と痛みを無意識に癒したがっているとき。
その悲しみに寄り添い、その傷が癒されるようにと願うとき、結局癒されているのは自分自身です。
「起こっていることは全て正しいこと」だとするならば、その痛みを自らが持っているからこそ、その目に映る世界に現れるのですから。
今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。