今夜も風は涼しく鈴虫の音が聴こえ、本格的に秋の訪れを感じますね。
秋の夜長とは申しますが、秋が訪れると不思議と何か感傷的な気分になります。読書の秋、芸術の秋とはよく言ったものです。
太古の昔から、人は日の射す時間が短くなり夕闇の時間が長くなると、もの思いに耽るものだったのでしょうか。やはり人の想像力というのは明るさよりは暗闇に喚起されるように思います。
さて今日はそんな秋の夜長に合う書籍の言葉を。
浅田次郎さんの「鉄道員」。
ご存じのとおり、直木賞受賞作。かく言う私も、浅田次郎さんの小説に触れたのは「鉄道員」からだった。
その後、「プリズンホテル」や「きんぴか」、「天国までの100マイル」など個人的なツボに嵌る名作にも出会ったが、やはり「鉄道員」は趣深い。8編の短編が切り取る主題は、それぞれが異なる読み手の心の琴線に触れる。
どれに最も惹かれるかと問われたら、迷わず「角筈にて」と私は答える。主題は仕事、親、喪失、罪悪感、手放し、になるか。
興味深いのは、後記で著者ご本人が「角筈にて」を書いた当時は、「蒼穹の昴」が直木賞に落選した失意の中で、締め切りに追われて書いたもので、こんなものしか書けなかった、と思っていたことだ。
時を経て、「その時にしか書けないもの」だという認識に変遷していったそうだが、作り手と受け手のこのギャップは浅田次郎さんのような当代の名人をしてそうなのか、と不思議思える。
何を書いたか
何を言ったか
よりも、
どう在ったか
どのように在ったのか
というバックボーンが人の心を動かす。何をするにも、いつも問われるのは「在り方」。
2017.7.26
私たちはいつも、何を言ったか、何を書いたか、何を伝えたか、ということを大切にします。
放たれた言葉、書いた文章、伝えたい内容。
いつもそれを考え、気にして、心配しているのが常になりがちです。
ところがコミュニケーションの最もスリリングで、かつ最も恐ろしい一面として、それらの言葉や文章は、放たれた瞬間に私(主体、話し手)の手を離れ、相手(客体、受け手)のどのような解釈も許してしまうという面があります。
「もう、いい加減にしてよ」
たとえばこの10文字の短いセンテンスは、主体と客体がどのようなシチュエーションで、どのようなイントネーションで、言葉にしたのかメールのように書かれたものだったなのか、そして主体と客体がどのような関係なのか、によって、
迷惑を被っているのか
愛情表現なのか
憤慨を表しているのか
はたまた自分への叱責なのか
千差万別の意味を持ちます。
そして、その意味を決めるのは「受け手」であるということ。「話し手」がどのような意図を持って発しようとも、最終的にそのコミュニケーションの意味を決めるのは、必ず「受け手」です。
コミュニケーションは、「何を伝えたか」ではなくて、「どう受け取られたか」が全てです。考えてみれば当然の帰結なのですが、その話し手と受け手の決定的な断絶はときにわれわれを慄然とさせます。
ところが、言ったこと、書いたこと、伝えた(と思っていた)ことよりも、必ず受け手に伝わるものがあります。それが今日の言の葉にある、話し手の「在り方」です。言い換えると、それは「感情」なのかもしれません。
どんな美辞麗句を並べて感謝と愛情を伝えたと思っても、心の底で受け手に怒っていたり、蔑んでいたりすれば、必ずそのように伝わります。反対に、どんなぶっきらぼうな言葉だったとしても、心の深いところに受け手への信頼と愛情があれば、このツンデレさん!と受け取られるでしょう。
そう思うと、もう受け手にはダダ漏れにバレているんだから、われわれがコミュニケーションでできることと言えば、何を言おうか、伝えようか、頭を悩ますことよりも、自らの心の正直な気持ちを整えておくことくらいなのかもしれません。
さて、浅田次郎さん。
「角筈にて」の中のこの亡き父の幻と再会した主人公の会話から、受け手は何を感じるでしょうか。
「おまえに、話があるんだが。聞いてくれるか」
「うん、聞かせてよ。ぼく、ぜったいに泣いたり怒ったりしないから、おとうさんの考えていること、みんな聞かせてよ」
手の届くほどに近寄って、父は肯いた。背丈はちょうど同じほどだ。
「おとうさんはいま、大変なんだ」
「うん、わかってる」
「おかあさんに死なれて、会社もだめになって、もう東京にはいられなくなった。遠くに行かなければならないんだが、小さなおまえを連れて行くわけにはいかない。それに――あのおねえちゃんも、おまえと一緒じゃいやだって言うし」
父は、子供と女を秤にかけたのだろうか。いや、それはちがうだろう。子供の幸福のために、父はその方法を選んだに違いない。表情は苦渋に満ちていたが、瞳はやさしかった。
父はきっぱりと言った。
「恭ちゃん。すまないけど、おとうさんはおまえを捨てる」
この一言だけを聞きたかった。恭一は背広の袖を目がしらに当てて泣いた。
父の手が肩に触れた。声を上げて泣きながら、恭一は生まれて初めて愚痴を言った。
浅田次郎さんの書く家族の喪失とその統合は、いつ読んでも落涙してしまいます。
それはこの「角筈にて」の話がほぼ実体験だと語る、浅田さんの在り方から来ているものだと思っています。
秋の夜長です。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。