1994年、エリザベス女王杯。
この当時、日本国外で産まれた馬には天皇賞や、ダービー・オークスといった重要なレースへの出走権がなかった。
国内の競走馬生産の保護のため、というどこかの業界の護送船団方式を想起させる保護政策。
だが同じ年に生を受けた、見た目も全く変わらぬサラブレッドが、その世代の頂点を決めるレースに出走することが叶わないその理不尽は、過去多くの悲哀とファンのタラレバを生んだ。
ヒシアマゾン。
1991年に北米で生を受けた彼女もまた、その制度に縛られる競走生活を送ることになる。
3歳を4戦2勝2着2回という戦績で負えた彼女は、4歳になった1994年に1月から10月まで重賞を5連勝する。しかし、そこにG1レースは含まれていない。
京成杯やNZT4歳ステークスで同世代の男馬を蹴散らしても、クリスタルカップで多くのファンを魅了した怒涛の追い込みを披露しても、外国産馬の彼女は皐月賞にもダービーにも、まして桜花賞・オークスにも出走することは叶わなかった。
ようやく外国産馬の彼女が出走できるG1が、このエリザベス女王杯だった。同年の桜花賞馬・オグリローマンと、オークス馬・チョウカイキャロルと初対決。
負けるわけには、いかなかった。
チョウカイキャロルとの最小着差の鼻差に、彼女の意地を見た気がした。
返す刀で、有馬記念で3冠馬・ナリタブライアンを相手に4コーナーで真っ向勝負に出ての2着。痺れた。
悪法もまた法なり。
そう言ってしまえばそれまでだが、それだけに彼女のエリザベス女王杯での戴冠にカタルシスを覚える。
2017.11.12
ヒシアマゾン。
ちょうど私が競馬を見始めた頃のスターホースがナリタブライアンでしたが、同世代のそれはそれは強い牝馬でした。
今は外国産馬にも天皇賞やクラシック競争は開放されていますが、当時は国内の馬産を守るためという名目でそうした主要レースへの出走ができませんでした。
朝日杯で同世代の馬たちを子ども扱いの馬なりで圧勝し、中野渡騎手が「賞金なんか貰わなくていい、他の馬の邪魔もしない、大外枠のさらに外でいいからダービーに出してくれ」と訴えたと伝えられるマルゼンスキーから、外国産馬の歴史は悲哀と「もし一緒に走っていたら」のモヤモヤ感を残してきました。
それでも、
いえ、そんな悪法があったらからこそ、ヒシアマゾンのエリザベス女王杯の戴冠はひときわ輝いて見えます。
葛藤や抵抗が大きいほど、カタルシスも大きくなる。
それと似たようなものなのでしょうね。
そう考えると、悪法も葛藤も抵抗も問題ではなくなるのかもしれません。
今日もごゆっくりお過ごしください。