いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。
昨日に続いて、小さな先生の教えを。
私たちはよく、よかれと思って他人のネガティブな感情を消そうとしたりします。
それは愛情の裏返しの心配だったり、コントロールしようとする癖だったり、自分の不安を投影していたりと、さまざまなことからなのですが、往々にしてそれはうまくいきません。
やはり、他人の感情は他人に任せておくのが一番のようです。
ネガティブな感情が、たくさんの恩恵をもたらしてくれるとするなら、なおさらそうですよね。
週末の公園にて。
梅雨の合間の陽射しは強く、もうすぐそこに夏が来ていることを思わせる。
息子と娘とよく訪れるこの公園は広く、いろんな遊具からデイキャンプ場、森の小径や池があったりと、いつ来ても飽きない。
通りかかった池で、初老の男性が木の枝でつくった釣り竿を三本ほど垂らしている。
興味をもった息子殿は、じっとその釣り竿を見ている。
くい、くい、と気持ち釣り竿の先が動いたのを見て、その男性はゆっくりと糸を手繰り寄せた。
しばしの静寂。
水面から黒ずんだ赤色の爪が覗いた瞬間、男性は左手に持っていたタモでその物体を掬った。
タモの中でもがいていたのは、大きなザリガニだった。
男性は手際よく、脇に置かれていた発泡スチロールにザリガニを入れる。
その中には、もうすでに何匹ものザリガニが泳いでいた。
目を輝かせる息子殿に男性は、
「おにいちゃん、やってみるかい」
と声をかけてくれた。
「ゆっくり引くんだぞ。少しでも影が見えたり、揺らしたりしたら、ヤツらすぐに餌を離しやがるからな。」
そう言って、予備の釣り竿にタコ糸を結び付け、おつまみの「あたりめ」を先端に結んでくれた。
場所をしっかり選んで、息子殿は釣り糸を垂れる。
じっと見つめるその視線の先は、しばらく時間が経っても微動だにしない。
「場所を変えてみようか」
といつもなら口に出してそうな言葉を、私は呑み込んだ。
これは、彼の遊びなのだ。
すなわち私の遊びでは、ない。
手出しは、無用。
6月にしてすでに30℃を超える真夏日の陽射しの中、遠くから聞こえる子どもたちの歓声だけが響いていた。
くい、くい。
ついに糸が動いた。
そっと息子殿は竿に近づき、竿を持った。
ゆっくりゆっくり・・・慎重に慎重を期して息子殿は糸を引き上げたが、残念ながらそこには餌がぶら下がっているだけだった。
「あー、くそー、ダメだった・・・」
そんな徒労を、3、4回繰り返すあいだ、私は何度も「おとうが釣ってみようか?」と言いそうになった。
けれども、
「あー、今度はちかくまできたのに」
と悔しがる息子殿を眺めながら、ついぞその言葉を発することはなかった。
その悔しさやイライラは、彼の大切な感情だ。
私が釣ってザリガニを与えるよりも、よっぽど大切なギフトになる。
その感情があるからこそ、失敗しても、うまくいかなくても、それでも工夫して考えてやってみようとする情熱になる。
ネガティブな感情は、やはり恩恵でありギフトだ。
子どもに限らず、パートナーであれ、親であれ、家族であれ、他人のそれを無くそうとすることは、恩恵を奪うことに等しい。
そして、自分の感情が自分で処理できていないときほど、人は他人の感情をコントロールしようとしたがる。
自分の感情を、他人を使って処理しようとするからだ。
それは、当然うまくいかない。
それは、ときには愛情の裏返しの心配なのかもしれない。
しかし、「安心したいのは、本当は誰なのか」と考えると、自ずと心配は役に立たないと分かる。
他人のネガティブな感情を奪おうとしない。
喜びや嬉しさ、楽しさと同じように、それは「共感」するだけで十分なのだ。
「悔しいよな、あとちょっとだったもんな。よし、もう一回頑張れ」
釣ってあげようか、という提案の代わりに、そんな言葉をかけていたら、結局その日息子殿は4匹のザリガニを釣って、満足げな顔をしていた。
どうしても連れて帰る、と言う息子殿に、百均で虫かごと砂利、水草、ザリガニの餌を買って帰ったが、翌日からベランダが超絶臭くなっているのは、ご想像の通りである。
どんなに時が流れても、あの匂いだけは、私が小学生の頃から変わらないようだ。
今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。