いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。
以前に、息子に連れられてプランターで茄子を育てることになったお話をしました。
こちらですね。
今日はその後日譚を。
息子と一緒に買ってきた茄子のその後。
鉢植えからプランターに移して、1週間ほどすると、みるみるうちに元気がなくなっていった。
日照時間が限られるベランダでは無理があったのか、
この40度超えの異常な暑さが堪えたのか、
水が足りなかったのか、それともやりすぎたのか、
肥料が足りなかったのか、
そもそも買ってきた時点で葉っぱが黄色かったりしたのがすでによくなかったのか、
素人の私には分からない。
けれども、ある日の朝起きると、茄子は力なくほとんどの葉っぱを落としてしまっていた。
水をやりにきてそれを見た息子の目に、みるみる涙がたまっていった。
「おとうがおせわしないからかれちゃった!」
と訴えながらおとうの太ももを叩き始めた。
そうだよな。
茄子が枯れちゃって、悲しいよな。
茄子、大事に育ててたのにな。
おとうも、悲しい。
できれば、一緒に収穫したかった。
悲しいよな。
悔しいよな。
ごめんな。
無理やり力ずくで抱っこしながら、そんなことを話していると、息子は落ち着いてきたようだった。
問題だと感じることや、ネガティブな感情は、実は自分の奥底にある本音に気づくためのチャンスだと思ってて、
往々にしてそういうときは、あいつが悪いと他人のせいにしてみたり、
さんざん悪態ついてみたり、自分に足りないものがあったと自棄になってみたりするけれど、
たぶんその感情はダミーで、その奥底にあるのは、
こうしたかった、
ああしてほしかった、
こうなってほしかった、
受け止めてほしかった、
という小さな小さな、か細い想いなのだ。
悪態つくのも意地を張ることも否定してしまうのも、
きっとその願いに気づくことの怖さの裏返し。
そして、自分でも気づかないその願いに気づいたとき、人は愛で満たされる。
どんなことも、それがトラブルであれ問題であれ、その愛を思い出すための必要な体験なのであり、その体験をするために人は生きる。
そして、もしかしたら、その体験こそ、人が奇跡と呼ぶものなのかもしれない。
枯れてしまった茄子でも名残惜しく、まだ水をやっている。
けれど、秋が来たら、冬向けの何かを新しく育ててみようかと思っている。
2018.8.9
問題やトラブルと思えることも、必要だから起きること。
それはきっと、心の奥底に眠る本音に気づくためのプロセス。
最悪なことも、残念なことも、苦しいことも、痛いことも、
全部必要なプロセス。
その体験を重ねることが、生きている、ということ。
そして、私たちは心地よい体験も、イヤな体験も、全てを体験したくて、生まれることを選んできたのかもしれません。
小さな先生は、いつも私にいろんなことを教えてくれるようです。