「諦めること」と「委ねること」。
傍目にはよく似た反応に見えるのですが、その底には大きな違いがあります。
今日は人のココロの天邪鬼な側面から、そんなお話を。
1.天邪鬼な人のココロ
人のココロというのは天邪鬼な面があります。
「このボタン、絶対に押しちゃダメだよ!」
というボタンは、ものすごく押したくなります。
「押すなよ?押すなよ?ゼッタイ押しちゃダメだよ?」
という前フリを3回されたら、思いっきり押して熱湯風呂にドボン!としてもらうのが、様式美ですよね。
「タブーの心理」「禁止の心理」とも呼ばれますが、私たちの脳は「否定形」を認識できないそうです。
「~しちゃダメだ」という意識は、全て「~する」というイメージを脳内に焼き付けられます。
そして、私たちの脳というのは相当にハイスペックなようで、その焼き付けられたイメージを現実に再現しようとします。
「大事なお客さんとの打合せ、絶対に遅刻しちゃダメだ」
「たくさんの人前でのスピーチ、噛まないようにしないと」
「今日こそは差し迫った試験の勉強をしよう、絶対に酒を飲んじゃダメだ」
・・・ええ、最後の一つは実感がこもっております。
「ダメ」な方のイメージが、日々必ず再現されております。
こうした例だと笑えますが、結構こうした心理は私たちの人生観の深いところに巣くっていることがあります。
「結婚したら幸せにならないといけない、離婚なんてとんでもない」
「たった一度の貴重な人生なのだから、失敗してはいけない」
「両親から貰った身体を蔑ろにしてはいけない」
「頑張って稼いだ大切なお金なのだから、無駄遣いしてはいけない」
はい、先ほどの「押すな、押すな、押しちゃダメだよ?」の例からすると・・・恐ろしい話ですね。
そうした観念を強く持つことは、知らず知らずのうちに「ダメな方」を実現しようとしているのかもしれません。
2.タブーの心理
そうした「ダメよダメよ」のタブーの心理は、私たちが持つ「怖れ」の感情からやってきます。
結婚で失敗したらイヤだ、病気や怪我は怖い、お金がなくなるのが怖い・・・
そうした「怖れ」が、「それをしちゃいけない」という禁止する執着を生み出します。
そして、「執着」は私たちの視野を狭くし、身も心も重たくします。
ずっと100円玉を両手で握りしめていたら、手が塞がって500円玉を受け取れないように。
そして何より、常に張り詰めた糸は切れやすくなるように、失敗が許されない戦いを常に続けられるほど、私たちは強くありません。
むしろ、
「離婚しても大丈夫、次があるさ」
「人生一度きりだけど、別にムダにしても楽しいかもね」
「身体に悪いこと、しちゃうときもあるよね」
「無駄遣いしちゃったら、また稼げばいいよね」
というくらいの軽さを持っていた方が、逆に熱湯風呂に飛び込まなくて済むようです。
3.委ねることと諦めることの違い
人のココロの天邪鬼っぷりは、不思議なものです。
それは、「委ねる」、「任せる」、「Let it be」、「あるがまま」、「サレンダー」といった言葉が表現している世界観のような気がします。
こうした言葉は、字面だけからすると「諦めること」と近いように見えます。
先の例でいえば、幸せな結婚を、人生の成功を、自分を労わることを、お金の豊かさを、どうせ手に入らないよね、という「諦め」。
そうした「諦め」の心理と、先の「委ねる」「任せる」「Let it be」「サレンダー」やらの心理とは、表面上の反応は似ているとこがあります。
しかし、「委ねる」という心理と「諦め」という心理には大きな違いがあります。
それは、自らの人生に絶望しているかどうか、ということ。
「諦め」の心理は、自らの人生に絶望しています。
「委ねる」心理は、自らの人生に希望を見ています。
同じものを見ているのかもしれませんが、その中に光を見るのか、影を見るのか。
さらには、光も影も私の人生として肯定してるのか、どうか。
もっと言うならば、
「怖れ」の感情を否定して、表面的に「失敗してもいい」と思っているのか、
「怖れ」もまた自分の一部として認めて、失敗を気にしなくなっているのか。
「諦めること」と「委ねること」には、そうした違いがあるようです。
私もそんな「委ねる」境地で、軽やかに人生を歩いていきたいものです。
今日はそんな人のココロの天邪鬼なお話でした。
今日もお越し頂きましてありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。