「判断」の心理が働くと、自分を窮屈にするばかりか、自分も相手も幸せになりません。
その心理の裏側には不安と怖れがありますが、それは実は自分自身の光の部分を見ることへの怖れです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.だれかが悪者になれば、みんなが負けてしまう
だれかを悪者だと判断すると、かならずその人と主導権争いになります。
たとえ心のなかだけだったとしても、その人を避けたり攻撃したりします。
争いをしかけて相手から影響を受けないようにしたり、相手を打ち負かそうとします。
しかし、だれかが負けるということは、みんなが負けたということなのです。
だれかがツケを払わなければならない状況をつくってしまったのです。
いったいだれがそれを払うと思いますか。
「いい人」と「悪い人」という判断を越えて見ていきましょう。
この判断は、実際は対処すべきことやコミュニケーションすべきことを隠しているだけです。
矛盾するように思えるかもしれませんが、もしあなたに理解しよう、競争を越えて先へ進もうという意志があれば、現在も未来も両者ともに満足できるような場所があるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.418
2.「判断」しても、誰も幸せにならない
今日は、「判断」がテーマでしょうか。
とかく私たちは、いろんなものごとを「いい/悪い」と分けて考えてしまいがちですが、そうした「判断」は誰も幸せにしないようです。
「判断」の心理
私たちは、ものごとを一面的な見方で見ようとします。
それは、理論的な「判断」の場合もありますが、多くの場合は感情で判断します。
そして、一度下した「判断」は、なかなか変えることが難しいものです。
「あの人は、〇〇な人だ」
「この人は、〇〇である」
といったように。
そうした「判断」は、引用文にあるように「いい人/悪い人」という区分で分けてしまうことが多いものです。
そのベースになるのは、自分自身のいままでの思考パターン、価値観、積み重ねてきた感情、傷ついた経験、あるいは希望や願望などです。
その裏側には、不安や怖れといったネガティブな感情が隠れています。
そのため、「判断」は一面的であり、ものごとの真実をとらえていない場合があります。
そうした「判断」は、他人に対して行われるだけでなく、自分自身に対してもしています。
「私は〇〇な性格だ」「私は〇〇な人だ」
そういった「判断」を持っていると、自分自身の可能性を狭めることになります。
常にレッテルを貼っている状態、といえるからです。
「判断」をするほどに、私たちの生は窮屈になってしまうようです。
「判断」が生む主導権争い
さて、そうした「判断」をすると、私たちはその相手と競争しようとしてしまいます。
あるいは、主導権争いをしようとします。
「こんな悪い人には負けられない」
「こんな人にはあまり近づきたくない」
そんな心理が、働いてしまいます。
「判断」をしている間は、その相手と競争したり、主導権争いをやめられなくなります。
これが「判断」の怖ろしさといえます。
自分が競争や主導権争いを降りない限り、その螺旋は延々と続きます。
「負けた人」や「間違っている人」と判断された人は、必ずその仕返しをしようとします。
これは、「加害者」と「被害者」の関係と似ています。
「被害者」は「こんなにもひどいことをされた!」と「加害者」を責めます。
その瞬間に、「被害者」は「加害者」になってしまいます。
そして、入れ替わった「被害者」は「そこまで言わなくてもいいじゃないか!」と「加害者」を責め返します。
「加害者」と「被害者」は、その立場をくるくると入れ替えながら、相手を責め続けます。
そこに勝者はおらず、誰も幸せになりません。
これは、「判断」がもたらすものとよく似ています。
「誰が正しい」「誰がいい」という判断は、終わりのない争いを生むだけです。
それは自分自身も、相手も幸せにすることはありません。
3.「判断」が隠しているもの
怖いのは、自分自身の光を見ること
さて、先ほどそうした「判断」のベースになるのは、不安や怖れだと書きました。
「判断」は自分の思考パターンや価値観、考え方や観念に基づきますが、その裏側には不安や怖れが潜んでいるわけです。
言い換えると、私たちは「判断」をすることで、こうした不安や怖れを避けているともいえます。
「この人は〇〇な人」
一度そう見えしまえば、その人ともうそれ以上深くつながったり、コミュニケーションしなくても済むわけです。
そう考えると、「判断」とは、自分自身を守るためにしている防衛反応と見ることもできます。
けれども、なぜ「判断」をすることで、相手と深くつながることを避けてしまうのでしょうか。
なぜ、深くつながること、コミュニケーションすることに、不安や怖れを感じてしまうのでしょうか。
それは、相手の光を見ることへの怖れです。
それは結局のところ、自分自身の光を見ることへの怖れです。
相手の光を見るとき、私たちは自分自身のなかにも同じ光を見ます。
これが、怖いんですよね。
「判断」の底にある不安と怖れを
「判断」を手放すために、自分の偉大さを受け入れる
「え?なんで?」と思いますか?
実際のところ、自分自身の光を見るのは、本当に怖いものです。
自分自身にダメ出しをするよりも、自分自身の光を見ることの方に、私たちは根源的な怖れを抱きます。
自分自身の偉大さ、愛の深さ、尊さ、豊かなセクシャリティ、与えられた才能やギフト…
そういったものを受けとるのは、本当に怖いものです。
それは、幸せになることへの怖れと、本質的には似ているのかもしれません。
あぁ、自分って、こんなにも素晴らしい存在なんだ…
私たちは常に「判断」をして、そう感じてしまう恐怖を抑えこんでしまうと見ることができます。
「判断」は、それに気づいたら手放す、緩めることが大切です。
「あの人は〇〇な人だ」と決めつけるのではなく、「あの人は〇〇な人に見える。けれども、違うのかもしれない」くらいで捉える方がいいのでしょう。
そして、「判断」を手放していくには。
自分自身の偉大さ、その光を受け入れることが、一つのカギになるのでしょう。
はい、いつだって、結論は同じになってしまいます笑
自分自身を受け入れ、愛し、許していくこと。
結局は、それに尽きるようです。
今日は、「判断」の心理から、それを手放していくヒントについてお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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