とんでもなく暑い日が続きますね。
全国的に酷暑のようですが、この傾向は日本だけでなく北半球全体だそうで、ヨーロッパでも各所で何十年ぶりに最高気温が更新されただのしないだの、と話題になっているようです。
私の住んでいる名古屋市も、先日とうとう40度を超える気温を記録しました。
週末のある日、日なたに出るとオーブンのような熱風が。
これは尋常じゃない暑さだとスマートフォンの天気アプリを開いてみたら、41度。
友人と話していたのですが、41度というと温泉か、インフルエンザのときの高熱状態の温度。
そりゃあ、熱中症にもなるわけです。
そんな日の夕方、息子と一緒に近所の川沿いの桜並木までセミ取りに出かけました。
子どもの頃に夢中になったことは、大人になっても楽しいものです。
木を見上げ、目をこらして保護色のセミを探す。
その時間は何も考えておらず、楽しいものです。
しかし捕れるのはアブラゼミばかりで、息子はまだ一回しか捕ったことのないクマゼミをご所望のようでしたが、
分け入っても、分け入って、アブラゼミ。
私が子どもの頃育った故郷では、もう少し小さくて薄い茶色のミンミンゼミやニイニイゼミなど、もう少しバリエーションがあったように思うのですが、去年から息子とセミ取りに出かけるようになってから捕まるのはほとんどがアブラゼミかクマゼミです。
生態系が変わったのか、地域の違いなのか分かりませんが、少し風情がないように感じてしまいます。
鳴き声も、ジジジジジ・・・というアブラゼミの鳴き声か、シャーシャーシャーシャーというクマゼミの鳴き声しか聞こえないようです。
今日もアブラゼミだらけだねーと息子と話していると、ふとあの鳴き声が聞こえてきました。
ツクツクボーシ、ツクツクボーシ、ツクツクボーシ・・・
息子はどこにいるのか早く探そう!と私を急き立てますが、私の中ではツクツクボウシは透明の羽根をした小さな蝉で、小さな私にはなかなか捕まえるのに苦労した記憶があります。
鳴き声のする木を見上げていましたが、その姿は見当たらず。
そのうちに鳴き声も止んでしまいました。
おとうが早く見つけないからだ!
と不満顔の息子。
けれども、私はお盆のかなり前にその鳴き声を聞いて、夏の終わりを感じてセンチメンタルに浸っていました。
あのツクツクボウシとヒグラシの声を聞くと、夏が終わるサインです。
私は夏生まれということもあるのか、やはり季節の中で夏というのは特別なものがあります。
もちろん、
霞がかった春の空も好きですし、
秋の澄んだ空気も好きですし、
冬の早朝の凛とした雰囲気も好きです。
それぞれの季節の美味しいものも、大好きです。
けれど、夏という季節は特別なのです。
新緑から小満、夏至、梅雨を経て、生命力が満ち溢れていく季節。
それだけに、陰陽が反転していく夏の終わりは寂しく、感傷的になります。
ああ、またこの夏が終わってしまう。
今年などは、夏が始まる前から夏が終わるのは寂しいなと、少し感じていました。
出会う前から、別れの寂しさを想う。
それもまた、夏が好きということ故なのかもしれません。
考えてみれば、この世界には変わらないものなど何もありません。
お日さまは、毎日少しずつ登る場所を変え、
空模様は一瞬一瞬ごとに姿を変えていき、
お月さまは毎日その表情を変えます。
街は気付かない間に少しずつその表情を変えていきますし、
そこに並ぶ街路樹も季節の移ろいとともに、毎日少しずつ葉の形を変えていきます。
私たちの身体を構成しているアミノ酸やたんぱく質も、わずか数ヶ月で全てが入れ替わりますし、
私たちの心の中の模様は一瞬たりとも同じ景色を見せません。
変わることこそ自然であり、この世界の本性なのでしょう。
けれども、それでも二度と戻らないこの夏が過ぎ往くことに、センチメンタルになってしまうこの季節。
今年はこ猛暑の影響なのか、思いがけず早くツクツクボウシの鳴き声を聞いたことで、一層そんな感傷的な気分になりました。
夕暮れの美しいグラデーションの帰り道。
川沿いで虫かごの蓋を開けると、アブラゼミたちはジジ・・・という鳴き声とともに空に還っていきました。
「明日はツクツクボウシを捕まえようね」という息子に、またセンチメンタルになってしまう私のある一日なのでした。