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今日は、私も結構そのケがある「完璧主義」とうまくお付き合いする、ということについて。
私たちがよく陥る心理的な傾向に、「完璧主義」があります。
文字通り「何か欠けていてはいけない」と思うことであり、それは「自分は何かが足りない存在だ」という欠乏感がもたらすものだといわれます。
いつも綴らせて頂いている通り、もちろんどんな主義でも感情でも正誤善悪があるわけではなく、ただ本人にとって必要だから選んでいるわけです。
それを自覚しているのか、無自覚なのかは別にして、ですね。
芸術家肌やアーティストの資質を持つ方にとっては、「完璧主義」が才能の一部になることが多いでしょう。
アートや作品のクオリティを、圧倒的に引き上げることができるわけですから。
けれど、そうした「完璧主義」が重荷になってしまうこともあります。
何かをしようとしたときに、すべてが完全に変わらないといけない、という「完璧主義」は、息苦しく感じます。
たとえば、「自分を否定せずに、自分が自分の味方でいることが大切」といったメッセージや、「親を感情的に理解し、許すことが人生の鍵」という金言を聞いたときに、「絶対に100%そうしないといけないんだ」と思ってしまうような心理状態です。
私もそうした経験があるのですが「絶対にそうしないといけない」と思った時点で、すでに苦しいわけです。
まして天気のように移り変わる、自分の心の内面の中で。
自分を肯定するということにしても、自分が100%自分を許して肯定できることは理想ですが、現実的には「今日は割と自分を許せてるな」「なんかすげえ大きな失敗しちゃって、自己否定したくなっちゃった」「私は何をしても許されてると感じる無敵状態」というような状態が、それこそ日々毎時間、一瞬一瞬移り変わっていくのが人だと思うのです。
そこで仮に否定が入ったとしても、「ああ、また否定してしまた、許せなかった」と思わなくていいと思うのです。
それこそ、100あるうちの51を肯定して許せていれば、万々歳だと思います。
49の否定があっても、それでいいんだと思います。
51と49。
その2つの差が、必ず徐々に徐々に積み重なっていきます。
それは、雪解けの一滴一滴のしたたる水が徐々に徐々に積み重なって、春という大きな変化を迎えるように。
自己肯定と自己否定にしても、
あるいはコミットメントと諦めにしても、
あるいは手放しと執着にしても、
はたまた許しと怒りについても、
51対49で十分なのです。
100ぜんぶを目指さなくていい。
100を目指そうとするから、辛くなるときがある。
半分近くは、できなくていい。
揺り戻しがあっていい。
それでも、もしも、
もしも51くらいはやれたと自分が思えたら。
もうそれはそれは、素晴らしいことだと思うのです。
そんなときは、ぜひ祝杯を挙げましょう。
51対49でいい。
そんな考え方が少しでも持てると、「完璧主義」とうまくお付き合いできるのかもしれません。