大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

料理をしながら、ワーカホリック時代のことを思い出した話

今でこそだいぶ緩んだが、以前はワーカホリックだった。

それは望まぬ別離によって傷ついた自分の存在価値を、「仕事の成果」で評価され必要とされることで埋めようとする麻薬のようなものだった。

当然、麻薬であるのだからどんどん効き目は薄くなるし、やめられないし、強い刺激を求めるようになる。

そして、どれだけ何かを達成したところで、根本的に満たされることは、ない。

まあそんなワーカホリック時代だが、仕事を回すことを早く覚えられたという恩恵もある。

仕事の質や種類は変われど、段取りがほとんどの仕事の生命線であることは変わりなく、そのために情報収集だったり、コミュニケーションだったりが付随して求められることが多い。

ワーカホリックに仕事をしていた時代は、いつも脳内シミュレーションばかりをしていた。

「もしああいう展開になったら、次に打つ手は・・・」

「予想されるトラブルはこれで、そのときには・・・」

「もし先方に断られたとき、次に動くために必要な時間は・・・」

異動したり職種が変わったりして追い詰められていたときは、必ず夜明け前に嫌なシミュレーションの夢で起きた。

ああなったら、どうしよう、と。

今日の朝一からやることの段取りを決めて、その成否によって何パターンもシミュレーションをしていた。

すでに頭のなかは線が焼き切れそうなくらいに冴えていて、二度寝するどころではない。

短期的にはそれもいいのかもしれないが、その状態を続けて成果を挙げることは難しい。

その仕事の仕方の行き着く先は、燃え尽き症候群か、身体がストップをかけるか、人間関係の問題が教えてくれるか、だ。

幸いにして燃え尽きも身体も壊さなかった私は、人間関係から自分を見つめ直す機会を与えられた。

自分の持っている価値を見直し、自己否定や犠牲や補償行為といったものから、自分に鞭を打って仕事をすることを「しなくてもいい」という選択肢を持つことができた。

(もちろん、自分がやりたければ「してもいい」)

自分の心にぽっかりと空いた穴をふさごうとしていくと、不思議なことに細かい先のことをほとんど考えなくなった。

いま、何をするべきか、何をすることが必要か、だけを考えるようになった。

起こることは、起こるべくして起こる。

それは、予想していた斜め上のところからくるから、トラブルになるのだ。

予想できるトラブルなど、トラブルではない。

どうする?という問いと同時に、答えが見えているからだ。

そうでないものがトラブルなのであるが、自分の身に起こるトラブルは必ず解決できる。

ただし、その解決方法が自分が当初望む形かどうか、は別の問題なのであるが。

そんなような諦念がビジネスパーソンとしてはどうなのか、「頑張らなくなった」当初は不安で仕方なかったし、実際に今でもよく分からない。

けれど、それで仕事のパフォーマンスが下がったかというと、決してそうではない。

あんなにも120%以上の力を出そうと頑張っていた時代に比べると、60~80%くらいの力しか使っていない感覚なのに、不思議なものである。

それが「肩の力を抜く」ということなのかもしれないし、あるいは「全体を見る」、「女性性を育む」ということなのかもしれない。

 

とはいえ、時には「段取り」、「コントロール」、「成果」への欲求が湧き出ることがある。

そういうときは、「料理をする」と満たされることに最近気づいた。

もちろん趣味に過ぎないのだが、料理を完成させるまでの工程を考えて最短で成果を出すようにするのは、ある種の楽しさがある。

段取り、コントロール、成果。

それがハマったときの、ワーカホリック時代の快感を思い出すのだろうか。

複数の料理を並行してつくるのが楽しい。

在庫、分量、仕入れ。

時間のかかる工程は何で、どんな順番を組むか。

手すきの時間ができそうなところはあるか。

どのボウルや皿を使い、いつ洗うか。

そんなことを考えるのは、どうもある種の快楽らしい。

これが、人によっては、

何か便利な調理器具はないか、とか

そもそももっと効率的なレシピはないか、とか

もっと美味しい味付けはないか、とか

もっといい素材でつくりたい、とか

いろんな方向性があるから、面白い。

私も数を重ねていくと、そういったところに目が向くようになるのだろうか。

やはり資質のようなもののような気もするが、どうなのだろう。

そんなことを考えながら、秋の味覚の豚汁をつくった秋雨の一日だった。

f:id:kappou_oosaki:20180915220506j:plain