神社に行くようになったのは、いつごろからだろうかと考えてみる。
記憶に残っているのは、2年前の12月に大阪の少彦名神社、通称「神農さん」を訪れた。
根本裕幸さんのカウンセリングを受けに、わざわざ大阪まで出かけていったのだが、早く着きすぎたので周りを探索しているときに、吸い込まれたように覚えている。
自分の心の抱えた闇をこじ開け、感情を取り戻しつつあった頃だった。
その後、自分のルーツを取り戻していく中で、1年前の6月に三重県の多度山に30年ぶりくらいに登った。
数少ない私の子どもの頃の写真の中で、母親と一緒にどこかの山頂で写っている写真の場所を探していた。
結局、多度山はその写真の場所とは違ったのだが、山道から降りて多度大社に参拝した。
その夏、数十年ぶりに故郷の夏祭りを訪れることができた際に、津島神社も再訪することができた。
その後もお飾れる土地の神社をちょこちょこと訪ねていたりしたが、
何かの縁で訪れていた神社めぐりは今年に入ってから加速していった。
年明けに一人で伊勢路に出かけて、お伊勢さんに初詣に行った。
伊勢神宮には、誰かと一緒に行ったことはあったが、一人で訪れるのは初めてだった。
そこで何か分からないが心地よさを感じて、神社をめぐるようになった。
3月にお伊勢を再訪する機会に恵まれ、さらに翌週には熊野三社を訪れた。
一人往く熊野古道・中辺路は、瞑想の路だった。
中辺路の終わりがけ、熊野本宮の社がもともとあった場所で、神様が舞い降りた場所と伝えられる大斎原の鳥居を眺めながら、椅子に腰かけて瞑想する時間は至福だった。
その後、10年ぶりに訪れた宮津では、天橋立神社・籠神社・真名井神社の三社をめぐった。
社を改装中だったのだが、真名井神社は表現できない何かのある場所だった。
その後神社ではないが、6月に赤穂義士ゆかりの泉岳寺に導かれた。
悲しい、悲しい空気の墓地だった。
そして、北海道神宮の清々しいまでの雄大さに癒され、
愛された記憶の多度山のふもとの多度大社を1年ぶりに再訪し、地元・名古屋の熱田神宮、豊国神社を訪れることができた。
こう振り返ってみると、それまで初詣くらいしか行かないのに、よくこの一年ほどの間にめぐったものだ。
次に導かれるのはどの神社か、いろんなサイトを見たりしては想像を膨らませていたりしたところ、あるサイトの写真が目にとまった。
美しい水の風景の写真。
今年に入って伊勢路の旅で2回とも訪れた、「天岩戸」の写真。
縁を感じて、この方のブログを読んでいると、私の生まれ故郷の神社の名前がでてきた。
津島神社。
見慣れたはずの風景なのに、夜明け前の美しい写真。
まるで違う神社のようだった。
そして、伊勢神宮から伸ばしたレイ・ラインは、津島神社を通り、白山中居神社にたどり着く。
この白山中居神社に行きたい。
そう思うと、あれよあれよという間に、企画した仲間同士の呑み会が、いつの間にか郡上八幡城へのオフ旅になり、気づけば「せっかくだから、この神社に行きたい」と無理を仲間に叶えてもらっていた。
たどり着くときには、たどり着くものである。
白山中居神社は、郡上市からさらに車で山を二つほど越えたところにあった。
途中、白鳥のスキー場が見えたが、さらに山を越えていく。
霧の出る道は、まるでもののけ姫の世界のようで、異空間に迷い込んだようだ。
本当にこの先にそんな神社があるのか?
周りの仲間も巻き込んで、1時間以上も車を走らせて、がっかりするような場所だったらどうしようか?
初めての土地を訪れるときの興奮と不安と、仲間への申し訳なさとで、私の胸は妙に高鳴り、緊張していた。
やがて、人の住む集落が見え始めた先に、神社はあった。
素晴らしい場所だった。
何も心配することはなかった。
先に述べたように、今年に入って多くの神社を訪れてきたが、これほど品格と神性を感じる場所は初めてだった。
この白山中居神社から、白山信仰の大本である白山まで登山道が続いているらしい。
神性を感じるのは、そのせいもあるのか。
千歳の時を経てきた杉の巨木に囲まれた土地。
宮川という名の清流を渡ると、あきらかに空気が変わる。
そういえば、伊勢神宮の内宮でも五十鈴川を渡ることを想い出す。
本殿が見えてくる。
特徴的な赤い色の社の屋根。
祀られる巨石。
見事な龍の装飾が施された、本殿。
本殿に祀られる祭神は、伊邪那岐大神(イザナギノオオカミ)と伊邪那美大神(イザナミノオオカミ)。
最も神性を感じたのは、この菊理媛大神(ククリヒメノカミ)を祭る大宮殿。
調和と結合の神
和解の神
総てのものをくくり合わされる
をご使命とされる仲直りの神様
と書かれていた。
調和、結合、和解、仲直りの神様。
和解、仲直り?誰と?
ふと頭に浮かんだその質問と同時に、答えが浮かんだ。
きっと、私自身と、だ。
ずっと続いてきた内面の戦いを、終わらせる。
そんな言葉が、思い浮かぶ。
千歳の風雨を免れた杉を眺めながら、ぼんやりとまた現世への橋を渡った。
一緒に来た仲間たちも、この場所と空気を気に入ったようだった。
一人参拝もいいけれど、仲間が導いてくれたおかげで、ここに来ることができた。
奇跡は二人以上で観測される。
帰り路の車中、私の好きなそんな言葉が頭を浮かべながら、私は心地よい揺れに身をゆだねてみた。