「何を信じるか」ということは、その人の人生の前提をつくる。
大切なのは、何度でもそれは選び直すことができるということ。
「信じる」というと大げさに聞こえるけれど、それこそ人は自分の信じる前提の中で生きていると言っていい。
それは、宗教のような世界観を形成するものもそうだし、
夜眠るときに、朝になれば目が覚めると信じているだろうし、
または私の大切な人は、突然いなくなってしまうという思いこみ、
はたまたお金は怖いもの、という前提を信じる人もいる。
そう考えると、そうした信じているものは無数にあって、私たちが気づいているものもあれば、無意識に刷り込まれたものもあるのかもしれない。
そしてその無数の「信じている」ことによって、その人の人生の舵が切られていく。
「私には愛される価値などない」と信じれば、
その人の船は寂しい枯れた世界に向けて舵を切っていくだろうし、
「周りの人は私が大好きで仕方ない」と信じれば、
その人のほのか船はほのかに暖かい世界に進路を取るだろう。
ただ、大切なのは、それは「選べる」ということ。
何度でも、選び直すことができる、ということ。
そして、自分の信じている前提は、自分の周りの他人が教えてくれる。
よくも悪くも、目に映る世界は自分の信じている前提の寸分違わぬ「影」だから。
その「影」の形を変えようとするなら、自分の信じている前提を変えるしかない。
それは、大きな船の舵を切りなおすときように、すぐには方向転換できないかもしれない。
けれども、何度でも舵は切りなおすことができる。
その前提は、何度でも選び直すことができる。
昨日は満月の一歩手前の「小望月」。
今晩になれば「十五夜」の満月になると信じるのも、一つの思い込みなのだろう。
それは、世界は美しい、と信じているということなのかもしれない。