ずいぶんと朝晩の空気が冷たく感じるようになってきた。
車のフロントガラスに冷たい露が降りている日が増えてきた。
いよいよ秋が深まってきたようだ。
自宅のベランダにも秋の訪問者が。
疲れていたのか、カメラを近づけても飛び立たず、サービスショットを撮らせてくれた。
接写してみると、あらためてその完璧なフォルムに見惚れる。
子どものころ、たくさんの眼が集まってできている複眼や規則正しい羽根の模様を飽きもせず眺めたものだった。
この時節のアキアカネは小さくて可愛げのある大きさだったし、
夏のシオカラトンボはそれよりも少し大きかったように思う。
私がよく訪れていた近所の小さな公園では、ギンヤンマやオニヤンマといった大きなトンボはなかなか見かけることが少なく、レアな存在だった。
昆虫図鑑の中の彼らの美しいフォルムを、溜息とともに眺めていたように思う。
日常の細部を眺めることは、いつも癒しをもたらしてくれる。
それはよいもわるいもなく、ただそこにあるものを目を凝らして受け入れることへの報酬のようなものだ。
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「悲しい」を排除して、「嬉しい」だけを感じることはできない。
「怒り」を無視すると、「情熱」も失われる。
「寂しい」を感じずに、「つながり」の恩恵に預かることはない。
「批判」をいけないものにすると、「冷静な知性」も霧散する。
「ダメな自分」を隠すと、「魅力的な自分」も隠すことになる。
すべてはコインの裏表で、片方を抑え込むとその反対にあるものも抑え込まれるようになっている。
善い・悪い、成功・失敗、正しい・間違っている、といういま現在の結果の目で世界を見ることは、生を息苦しくする。
いま目に映る失敗が、あとから振り返った時に「あの失敗があったからこそ、そこから大きく成長できた」と感じることなど、いくらでもある。
だとするなら
起きている全てが最善、と受け入れることから始めよう。
これはいらない、あれは受け取ろう、と選ぶことはやめて、アキアカネも何でもやってくるものは受け入れよう。
夜の闇が訪れれば、そこに浮かぶ月の美しさが映えるように。
全ては完璧で、要らないものなど何もない。
日常の細部を見つめていると、その真実を肚の底に何度も落とし込んでくれる。
何気ない日常に落ちている奇跡を見つけ、拾うこと。
その過程を、人は癒しと呼ぶのだろう。