人生というものが、大きな海を渡る航路だとするなら、
船は「肉体」、船長は「魂」、コンパスは「心」に例えることができる。
夢や目標の叶え方 ~目的地にたどり着かないのは、ナビを信用してないからかもしれない。 - 大嵜 直人のブログ
そして付け加えるなら、その船を動かす燃料となるのは、「習慣」と呼ばれるものなのかもしれない。
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先日のエントリーで「靴磨き」について書いたところ、SNSで靴大好きな知人から
「靴磨きは自分磨きに通じる」
というコメントを頂いた。
まさに至言で、その通りだと膝を打った。
靴を磨くことは、自分を磨くこと。
それを習慣化して続けることは、自分を磨き続ける、ということ。
そうしたことは、一回やったくらいでは何も変わらない。
やり続けることが、とんでもなく遠くへ私たちを連れて行ってくれる。
ブログにしても、同じように思う。
一回や二回、いいエントリーを書いたところで、何も変わらない。
何回書いても書き足りない、飽きない、それほど伝えたいものがあるのか、どうか。
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人生とは、大きな船の航路のようだ。
自分が信じている前提で、船は進む。
そして、航路はある日急には変わらない。
それを振っただけで現実が急に変わる魔法の杖など、現実には存在しない。
これが人生の逆説的で面白いところで、辛い、しんどい、悲しい、痛い航路を進んでいるときほど、人は魔法の杖を求める。
一秒でも早く、この状況を脱したい、楽になりたい。
私も自己否定の極北の航路にいたとき、そればかりを考えていた。
あの人がいいと言っていたあれをやれば、何かが変わるんじゃないか。
それとも、この人が勧めるこれをやれば、ここから抜けられるのではないか。
日々、そんなことばかりを考えていた。
ある意味でそれは間違っていて、ある意味でそれは正しい。
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私たちの人生が大きな船の航路であるなら、その船体は「肉体」、そして船長は「魂」だ。
船長は必ずその船の目的地を知っている。
一見無駄なような航路に見てても、ぐるっと喜望峰を回って黄金の国・ジパングに辿り着く航路を選んでいるのかもしれない。
誰しも、自分の魂はその目的地を知っている。
そして、その道順を教えてくれるのが、私たちの「心(感情、感覚)」というコンパスだ。
船長の指し示す目的地に対して、今の航路が合っているのか、コンパスは正確に指し示してくれる。
心地よい、ほっとする、楽しい、嬉しい、ワクワクする、ドキドキして怖い、そんな感情はいまの航路が合っている、とコンパスが指し示してくれている。
嫌だな、苦しい、悲しい、イライラする、というようなコンパスの反応は、もしかしたら航路を見直す時期なのかもしれない。
そうしたネガティブな感情は、大切な指針だけに、押し殺すと危険な航路を進んでしまうこともあるだろう。
だからネガティブな感情だけを押し殺してしまうことは危険だ。
反対のポジティブな感情も感じられなくなり、コンパスが全く効かずに彷徨う難破船のようになってしまう。
そして、「心」のコンパスが指し示した航路を進む「燃料」となるもの。
それは、間違いなく「習慣」だ。
今までずっと面舵を取っていて、コンパスの航路が逆を示すならば、取舵を取ってみるという行動が必要になるのだから。
その行動を習慣化すると、一日、一日とだんだんと船は進みたい方向に向いていく。
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そうした習慣化された行動は、日常になる。
その先に、コンパスが指し示した景色が広がっているのは、当たり前の話なのだ。
どんなに優秀な師もメンターも先生も、あるいはどれだけ幸運な出来事でも、
誰もが、あなたの航路を変えることはできない。
逆にどんなに批判されても反対されても、あるいは不幸な出来事が起こっても、
何人たりとも、あなたは航路を変えなくていい。
自分を変えるのは、他人ではない。
自分でしかない。
まして、自分を磨くのは、他人ではない。
自分でやるしかない。
何度も何度でも、ここに戻って来よう。
「私を変えることができるのは、私しかいない。」
それは一見絶望のように見るかもしれないが、大いなる希望であり福音なのだ。
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だから、今日も靴を磨こう。
今日も、ブログを書こう。
続けよう。