大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

触れる、磨く、撫でる、愛を伝える。

「応急手当」などに医療行為にも使われる「手当て」という語は、文字通り「手を当てる」行為から由来すると聞く。
薬も何もなくても、手を当てるだけで、人の身体を癒すことはあるのだろう。

お腹が痛くなってうずくまる子どもの背中を、ゆっくりとさするだけで何かが流れるような気がしたり、不安で仕方がないときに手を握ってもらって安心したり、ネコの喉をさするとゴロゴロと喉を鳴らして嬉しそうにしたり。
人の身体というのは不思議なものなのだろうけれど、手で触れるというのは、それだけ特別な意味を持つような気がする。

それは、人間や生きもの相手だけの話でもないように思う。
道具なんかも、同じような気がする。

たとえば、靴磨きなんかは、その最たるものだろう。
普段あまり気にしていない足元の靴を磨いていると、なんだか靴に愛着と感謝が湧いてくる。
きれいに磨いた靴を履くと、とても満たされた心持ちになる。
靴に愛情を注ぎ、また靴からそれが循環していくような。

磨く、という手で触れる行為には、その対象に意識を向け、愛を差し向ける効用があるように思う。
そして、拭いている間は無心になれる。
いつもあくせくして止まらない思考が、ゆるやかに静かになるように思う。

たとえば、リビングの床や窓を拭き掃除したりするのも、同じことが言える。
普段気づかなかった汚れを拭いて落としていると、無心になり、心穏やかになることが多い。

たとえば、このブログを書いているノートPCなんかも、よく拭いている。
よく触れるキーボードなんかはすぐ汚れるので、使う前に拭きながら、ブログの内容を考えてみたり。
もっと文章がうまくなりたいなと思いながら、拭いてみたり。
弘法大使は筆を選ばなかったそうだが、それでも使う筆は大切にしていたのだろうかと、よしなしごとを考えてみたり。
そうこうしているうちに、きれいになったキーボードを見て、気分がスッキリするのだ。

触れるという行為は、その対象に自分が愛を差し向けていると言えるのかもしれない。

時に、自分が触れるものに、自覚的になることも大切なように思う。

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ノートPC磨きセット。