11月7日、立冬。
まだ木々の赤化粧も途中で、ようやくその身体から木の葉が暖色の吹雪に変わるころ。
晩秋に向かって、静かに死のサイクルは足音を速めていくころ。
暦の上ではもうすでに冬、立てる日。
北国から初雪の便りが届き、遥かな山々の頂には厚い雪化粧がされる。
北風が吹き始めるのもこの節気。
目に映る世界の細部を、ほんの少し眺めてみると、その大きな変化に気づく。
そして、その変化は私の内面の変化なのかもしれない。
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必要なものは、必要なときに教えられる。
それは言い換えるなら、私にとって必要なものは日々変わっていく、ということ。
傷を癒すことが必要な時期には、安全な巣穴でただ静かに傷を舐めて待つことが必要かもしれないし、
空を飛ぶことを学ぶ時期には、強靭な意思の力とそれを教える親鳥が必要なのかもしれない。
必要なものは、日々変わっていく。
その変化を感じるということは、日々うつろう周りの世界の細部を見つめるということだ。
真夏のぎらついた陽射しの炎天下で、いつまでも暖かい防寒具やカイロを持っている者はいないし、
真冬のしんしんと底冷えする夜に、風通しのよい木陰で塩飴を舐めている場合ではない。
世界の細部を見つめ続ける、ということ。
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それでは、世界の細部を見つめ続けるとは、どういう行為を指すのだろうか。
それは、自分の内面を繊細に扱う、ということ同義だ。
なぜか?
「外」の世界とは、開かれた「内」なのだから。
たとえば、チクワの円筒の内側は、いったい「外」なのだろうか?「内」なのだろうか?
答えは、「外」でもあり、「内」でもある、のだろう。
私の目に映る「外」の世界は、実は私のチクワの「内」側たる心の投影であるとは、そんな風にも表現できるのかもしれない。
「外」の世界の細部を見つめ続ける、ということは、
自分の「内」なる心の内面の万華鏡を飽きることなく眺め続けることに他ならない。
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自分の内面に蠢く感情を見つめ続ける、ということ。
心の内面に浮かんでは消える一つ一つの感情の襞(ひだ)を、見つめ続けること。
怒り、愛しさ、嬉しさ、寂しさ、妬み、悲しさ、後悔、罪悪感、喜び、無価値感・・・
浮かんでは沈む、うたかたのようなそれを、丁寧に扱うこと。
夏祭りの夜店で撚った紙の釣り針で引き揚げた水風船のように、丁寧に、丁寧に。
水風船の色や形や大きさに意識を取られることなく、ただ引き揚げることだけに、丁寧に。
引き揚げることができたその水風船は、虹色の砂のようにさらさらと溶けて散っていく。
感情を感じ尽すと、心が軽くなるというのは、そんな風景なのだろう。
夏祭りの風景の中で、一つ一つの水風船の模様に大して意味はないように、
感情の一つ一つにも大した意味はなくて、ただ感じて欲しいだけなのだ。
そして、感じることができれば、彼らは昇華していく。
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目に映る世界の細部を、ほんの少し眺めてみると、その大きな変化に気づく。
そして、その変化は私の内面の変化なのかもしれない。
「外」と「内」は同じものの裏表なのだから。
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さて、立冬らしく季節の柿を頂いた。
福島は会津から来た、将軍様にも献上されたという「みしらず柿」。
渋柿につき、焼酎で渋抜きをされて出荷されるそうだ。
断酒をした私の代わりに、焼酎を楽しんできてくれたこの柿たち。
遠慮なく、立冬を楽しもうと思う。