さて、断酒13日目である。
1週間を越えたあたりから割と「飲まないのが当たり前」の状態になっており、「断酒しないと」という意識はそんなにない。
このあたり「これだけ苦労した!」と書けないので、ブログのネタ的にはいまいちなのだが。
それでも、やはり1週間というのが習慣化の一つの区切りのような気がする。
1年半前に禁煙したときも、吸わなくなってから1週間が最もつらかったが、それ以降はそんなに苦労した気がしない。
せっかく禁煙したのだから、そのときも「禁煙日記」をつければよかった。
やはり、人は「答え」よりも「何かに挑戦する姿」に魅かれるのだから。
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ということで、とりとめもない断酒日記だが、今日は少しお酒と感情の関係について、私の考える仮説について考えてみたい。
以下に述べるのはまったくの私見であり、だからお酒がいいとか、悪いとかいう議論がしたいわけではない、ということを予め記しておきたい。
その上で書きたいのは、お酒はそのとき感じている感情を解放するのではなく、冷凍するのではないか?という仮説である。
誰でもお酒を飲んで酩酊状態になると、気分も緩んで楽しくなる。
気も大きくなるし、まあ世に言うところの「酔っ払い」になるのだが、そのときの感情はその場の雰囲気に左右されるように感じるのである。
周りが大笑いして賑やかな飲み会のときは、その雰囲気のように明るく楽しい気分に、
洒落たバーでジャズを傾けながら、モルトの香り漂うグラスを傾けるときは俺カッコいいなぁ、という気分になるし、
一人でしんみりと音楽を聴きながら杯を傾けるときは、やはりその音楽に沈むだろうし、
誰かと差しで飲んでいるときは、その相手との会話の内容を反映した気分になる。
悩み相談のときは同じように悩むし、惚気話のときはニタニタしてしまう。
お酒を飲んだときの感情は、その場の雰囲気や一緒に飲む人の感情に、大きく影響される。
周りの人の感情を自分の感情として感じてしまう人のことを「エンパス」(または「サトリ」)と呼ぶことがあるが、お酒を飲んで酩酊状態になると、誰しも「エンパス」傾向になるのではないか?
というのが、私の仮説である。
酩酊状態になると、理性的・論理的なな思考が緩む。
まあ私もそれで大概やらかしてきたがそれは置いておいて、その「思考が緩む」と、同時に周りの感情や雰囲気と自分とを分離するガードのようなものが緩むのではないか。
その結果、誰しも「エンパス」気質になる。
それが、お酒を飲んだときに感じる感情の正体のように思うのだ。
そして、酩酊状態が醒めたとき、あの感情は何だったのだろう?とぼんやりすることが私はよくあった。
もちろん、泥酔してしゃべり過ぎたなあ、と後悔して特大の罪悪感を抱えるようなこともあったが・・・
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さて、そうして考えてみると、お酒を飲んで緩む前の感情というのは、飲んでいる間はどこかへ隠されてしまうように思うのだ。
さしずめ、食べきれない食材をラップにくるんで冷凍するように。
それは、お酒を飲んでいる間はどこかに行ってしまっているのだが、なくなったわけではない。
どんどん感情を消化しないで冷凍庫へ詰め込んでいくと、あるとき「もうこれ以上入りませんよ」という臨界点がくるように思うのだ。
私のこれまでの飲酒経験の中で(数多くの)失敗をしたのは、大概そうしたときにさらにお酒を飲んだときのように思う。
感情は感じると消化(昇華)され、抑えると暴れ出す。
お酒はそのときの感情を冷凍こそすれ、決して消化することはない。
今はそんな風に思うのである。
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冒頭で述べた通り、だからお酒が悪い、断酒するべきだ、という話をするつもりはもちろん毛頭ない。
前にも書いたが、私が孤独を抱え、寂しい悲しい感情を抑えていた頃、お酒が唯一の楽しみでもあり、救いだった。
酔っ払って混濁した意識の底に、沈んだ自分の影を見ていた。
そうせざると得ないときもある、それだけのことだと思う。
私のことで言えば、お酒がなければ、その鬱積した感情を散らすことのできる、何か別の刺激的なものに依存していただけのような気がする。
こう書くと、やはり私は「お酒の味や香りといった五感を使う魅力」よりも、やはり「お酒を飲んで酩酊すること」の方が好きだったのかなぁ、と思うのである。
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とりとめもないお酒と感情の話になったが、とりあえず断酒継続中である。
以前と大きく変わったところはないが、睡眠の質は確実によくなった気はする。
ここのところ、朝目覚めて疲れが残っていることがあまりない。
断酒の恩恵として、受け取っていこうと思う。
それにしても、スマホの写真のストレージを見ると、今までの美酒が出てきて身体に悪い。