さて、断酒して711日目。
セブンイレブンである。
もう来月には丸2年になるかと思うと、感慨深い。
あの自宅近くの川の橋の上で「なんとなく」決めた断酒だったが、2年近くも続くとは思わなかった。
息子が、橋の上からぽいぽいとカメに餌のパンを投げていた風景を思い出す。
霜月の、冷たい小雨が降っていた。
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そんな風景を思い出しながら、あらためて断酒の功罪について考えてみようと思った。
けれど、いくつか挙げていく中で、ある変化を一義的に功罪と決めつけることは難しいと感じた。
それは、人の性格において長所は短所・短所は長所だと言われるのと同じことかもしれない。
なので、「メリット」「デメリット」というよりは、「変化」として捉える方がよさそうだ。
断酒してからの「変化」といえば、
人生の終わりのような二日酔いの朝がなくなったこと、
よく眠れるようになり、朝起きるのが爽快になったこと、
夜の時間が長くなったこと、
飲み会・会食にあまり誘われなくなり回数が減ったこと、
飲まなくても飲み会・会食は楽しいと気づいたこと、
甘いものが(ますます)好きになったこと…
などなどが思い浮かぶが、一つ大きなことは、「寂しさをそのままにしておくようになったこと」だろうか。
それは、断酒の効用なのか、それともそうなったことが断酒の効用なのか、分からない。
ニワトリが先か、卵が先か、のようなもので、同時発生的なものなのかもしれない。
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寂しさを、そのままにしておく。
寂しいとき、人は何かに依存するか、あるいは何かに逃げる。
その「何か」は、人それぞれだ。
恋愛や仕事の場合もあれば、お酒やギャンブルの場合もある。
寂しさとは、人間のなかで最も古い感情の一つといわれる。
母親の胎内から外界に出て、へその緒を切ったときから感じる、とも聞く。
それだけに、寂しさは強烈に人を狂わせることもある。
さもありなん、と思う。
寂しさは誰にとっても嫌な感情で、避けたいものだ。
普段は忘れて蓋をしていたそれが、ふとしたときや、あるいは外界からの刺激で、蓋が開くときがある。
長いこと蓋をしていた人は、それが何の感情であるか分からず、混乱することもあるだろう。
その未知の感情を怖れ、それを忘れるために、没頭できる何かに依存したり、あるいは酩酊状態に逃げ込む。
かくも、お酒と孤独は相性がいい。
痛みを散らすように、寂しさを紛らわせるように、強いお酒を飲む。
私も、そのようにして飲んでいた。
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多くの場合、怖いのは、寂しさそのものではない。
それに蓋をして、久しく感じていなかったからこそ、怖くなる。
ペーパードライバーが何年ぶりかに運転するときに、怖さを覚えることもあるだろうけれど、それは自動車そのものを怖れているのではない。
未知の風景に対する怖れ。
けれど、その風景は、いつか見たものだ。
何年も前に、教習所では普通に運転していたはずなのだ。
同じように、誰しもがこの世に生まれ落ちる時は、母親の胎内から切り離されて、ただ一人で生まれてくる。
寂しさも、そこで感じたはずだ。
けれど、ほのかに温かい愛情も、同時に感じてきたはずなのだ。
そうでなければ、いまこうして生きているはずもない。
寂しさは、怖いものでもない。
いつか感じた、古い感情だ。
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寂しさを、そのままにしておく。
それを何かで散らそうとせず、ただ、そのままに。
その寂しさを抱えたまま、眠ったとしても。
何時間後かには、朝日が昇る。
そんなふうに感じるのも、断酒してからの変化だろう。