大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

断酒日記【24日目】 ~「当たり前」と「手放し」について

さて、断酒24日目である。

酒とタバコでいうと、タバコの方がやめるのが難しいとよく聞く。

けれども、どっぷりと飲んで吸っていた生活からどちらも断った私からすると、確かに禁煙は何度も挑戦しては失敗してきた経験があるのだが、断酒は「そもそもやめようとすら思わない」「飲むことが当たり前」だったのが正直なところだった。

そういった意味では、酒の方がやめるのが難しい面もあるのかもしれない。

そして、「当たり前」を疑ったときに、人がその目に見る景色は大きく変わる。

私は禁煙して1年半ほどになるが、やはり私も禁煙の方が辛かった。

何度も禁煙と再開を繰り返していた。

風邪を引いた機会に1、2ヶ月やめてみるものの、酒の機会に酔った頭で吸ってしまって、翌日から再開するのはザラで、最長で1年やめて再開したこともある。

それでも、今では電子タバコや葉巻といった人生未経験のものを味見してみることはたまにあっても、喫煙を再開しようと思わないので、今のところ禁煙は成功しているのだろう。

禁煙してみて分かったのだが、飲酒しながらの喫煙は、私にとってひどい二日酔いのトリガーになるようだった。

禁煙してから、お酒のダメージが翌日にあまり残らなくなったのを覚えている。

まあ、お酒もやめた今となっては、もう使うことのない知識ではあるが。

いっぽうで、酒はこの断酒宣言をするまで、一度もやめようと思ったことはなかった。

飲み始めてから約20年。

いかに「お酒を飲むこと」が「当たり前」になっていたか、ということである。

そして、「当たり前が当たり前でない」と知ったときに、大きく世界は変わる。

先日、ある大切な友人が

自分の中で最も手放せないと思っているものを手放すと、世界が大きく変わる。もっと素晴らしいものが代わりに入ってくる。

という内容のことを、実体験を踏まえて話してくれた。

その仲間にとっては、「辞められないと思っていた仕事」であったようなのだが、私にとっては「やめられないと思っていた酒」なのかもしれないな、と思った。

「手放す」とは、「握りしめていた拳を、そっと開く」というイメージに近い。

こうやってムギュギュギュギューッとしていた(執着していた)ものを、

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そっと、やさしく開くのが「手放し」のイメージ。

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決して、こうやって無理矢理ポイっとするわけではない。

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例えばの話なのだが、振られた彼女への執着を手放すと、素敵な出会いが待っていたり、思いがけず復縁したりすることがある。
彼女への未練タラタラでいるのもカッコよくは見えないし、
振った彼女を見返してやる!と意気込むのも、実は執着の逆の表れだ。

心から相手の幸せを願い、自分も幸せになれると確信できたとき、「自然と」執着は離れていく。

難しいのだが、こう書くと「執着を手放さないといけない」と考えてしまうが、それ自体が「執着を手放すこと」に執着するようになるから、これはこれでけっこうキツい。

禁煙を意識しようとすればするほど、タバコの手触りや火を点ける感じ、そして味を想像してしまうように。

「手放し」とは時間のかかるプロセスであり、執着してしまうときには執着すればいいのだ。

吸いたければ吸い、飲みたければ飲めばいいのだ。

必要なときに、必要なものは与えられているのだ。

ということで、禁煙から断酒から手放しから、まとまりのないエントリーになってしまったが、断酒は継続中である。

最後に、ここのところ断酒したことを知った方からいろいろ聞かれるので、今の私のお酒に対してのスタンスを記しておこうと思う。

お酒をやめても酒席は好きだし(飲まなくても楽しい!)、
酒肴でも何でも美味しいものは好きだし、
隣でお酒を飲んでても気にならないし(むしろ嬉しい)、
断酒もいま(というか、今日)のところ続けようと思うが、
先のことは分からない。

いまはそんな感じで考えている。

そう言っておいて、明日には変わるかもしれないが。

きっと、それでいいのだと思う。