大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「自己犠牲とは、優越感と劣等感をいったりきたり」

チャック・スペザーノ博士の名著、「傷つくならば、それは「愛」ではない」のなかの一節が響いたので、それについて書いてみようと思う。

それにしても、今年の元旦から順番に写経をしているこの本だが、そのときの自分に必要なフレーズが出てくるから、本当に不思議である。

「自己犠牲とは、優越感と劣等感をいったりきたり」

だれかの犠牲になっていたり、真実ではないのに「世話をする人」の役割を生きているとき、自分が相手よりも優位に立っているように感じられます。自分のほうが何かしらまさっているような気がするのです。ところがその奥にはじつは劣等感がひそんでいて、自分を守ってくれるものなしに人に対面する勇気がないのです。そこで自分をより上に見せるための「役割」が必要になります。というわけで、犠牲のドラマがはじまるのです。

私たちは何かを失った体験があまりにもつらかったために、そうした体験から自分を遠ざけ、喪失感を味わわなくてすむように、だれかを助けるという役割を身につけました。ところが、皮肉にも、それによって自分を喪失のまっただなかにくぎづけにしてしまったのです。つまり、失ったものを嘆き悲しむプロセスを完了していないために、いつまでも喪失から立ち直ることができないでいるのです。

そこでいまも、過去や現在の喪失を感じないですむように自分を守ります。その結果、自分が人よりもまさっているか、劣っているかという悪循環に身を投じてしまったのです。劣等感は古い痛みからきており、私たちが受け取るのを妨害し、疲弊させます。

チャック・スペザーノ博士著

「傷つくのならば、それは「愛」ではない」 p.447

もう今日はここで書くのをやめたいくらい、グサグサ刺さっている笑

まさにその通りで、ここのところ私の気づきそのままだった。

= 

この内容とは全く関係ないのだが、

何らかのことを「体感する」「腑に落ちる」「肚落ちする」という表現があるが、それらは「読む」「聞く」「聴く」「見る」「行く」「話す」といった受動的な体験だけからもたらされるものではないように思う。

もちろん、あることを見聞きして、その内容を「分かる」ことはできる。

しかし、それと「体感する」ことは全く別のことのような気がする。

ある自分の中から湧き上がる「気づき」があって、
その気づきに合致する情報を周りの世界から探しだし、
その「気づき」を「言語化」してくれていることに感銘を受け、
「体感する」ことができる、
という順番のように感じるのだ。

自分の中の「気づき」があってこそ、その情報をキャッチすることができる。

それがなければ、きっと読み過ごしたり、目に留まらなかったり、心に残らなかったりするだけなのだろう。

では、その「気づき」を得るためにはどうするのか?

と言えば、やはり内省と身体感覚のように思う。

自分の内面と対話をしながら、自分の身体が感じることを信頼していくこと。

その上で、外界からインプットする情報がフローすると、「気づき」になるような気がするのだ。

科学的な再現性のない話ではあるのだが。

おっと、あまりにスペザーノ博士の文章が、今までの私の生き方そのものを書いていたので、現実逃避してしまった。

「つまり、失ったものを嘆き悲しむプロセスを完了していないために、いつまでも喪失から立ち直ることができないでいる」のだ。

端的に言ってしまえば、二十歳過ぎから二十年弱、ずっと私はそうだったのだ。

突然に両親を亡くしてから、きちんと嘆き悲しみ中指立てて暴れてこなかったから、自分を喪失して、自分の価値を見ることがずっとできなかった。

それは、もしそのときに一気にその痛み悲しみ寂しさ悔しさ憎しみ・・・を感じてしまったら、心が壊れてしまうから、無意識に感情のブレーカーを飛ばしていたのだ。

もちろんそれは、心が持つ最後の自衛手段でもある。

ブレーカーを飛ばして悲しみを感じられなくする、ということは、今となってみれば、当時の自分にできた最低限の自己愛だったのだろう。

両親を突然亡くしたことで喪失したのは、
両親そのものではなくて、
私自身だった。

そして、ブレーカーを飛ばして自分を喪失した私は、「犠牲」して何らかの「役割」を演じることでしか、人と付き合えなくなった。

他人の仕事まで抱えてハードワークをすることで、誰かのお世話をしている、役に立っているという優越感でようやく自分の価値を見いだしたり、

それでも「古い傷」が疼くものだから、代わりに周りに比べて劣っているところを探して劣等感という刺激を与えて、その疼きを散らしたり。

歯がずきずきと疼き出したら、わざとタンスの角に足の小指をぶつけようとするようなものだ。

その状態では、へりくだるか無意識の優越感に浸るかのどちらかで、ほんとうに人と対等な関係を築くことができないので、一定の距離以上に人と親しくすることが難しい。

まるでドーナツのように、親しさの中心にはぽっかりとした空洞が広がっている。

まるで蟻地獄に砂がさらさらと落ちていくように、寂しさが募っていく。

その寂しさを紛らわせるために、さらに「犠牲」するという悪循環・・・

・・・だいぶ書いていて気が滅入ってきたが、それを言語化できたことが大きいように思う。

正直なところ、それこそいままで「溢れる水を与えてくれた」人たちに申し訳ないとも思う。

ただ、それを肯定する必要も否定する必要もないのだろう。

誰が悪いわけでもない。

だって、そうするしかなかったのだから。

そう、いままでは。

きっと、この項目に対するスペザーノ博士の対処法、ワークを眺めながら、また明日を迎えればいいのだろう。  

■自分のほうがちょっぴり上だと感じていたり、わざとらしく人を助けているようなところを探ってみましょう。

逆に自分のほうが下だとか劣っていると感じるところや、だれかがあなたを助けたり面倒をみてくれるべきたと感じるところも観察してみましょう。どちらにしても、自分のことをあまりよく感じられないので、相手と対等な関係になれないのです。あなたはどこかで犠牲になり、相手の望むことは何でもしなければと感じているのです。

それでは、あなたがまだ嘆き悲しむのを完了していない、もともとの時と場所に戻ってみましょう。天の助けを求めてください。その場にいたすべての人にあなた自身を与えましょう。するとあなたを通して愛と恩恵が降りそそがれ、その場の全員を満たしていきます。

これによって、いまの犠牲的な状況から解き放たれ、より対等なパートナーシップを生きることができるようになるのです。

同著 p.447.448

スペザーノ博士の言に従って、「天の助けを求めて」みることにしよう。

何たって、ちょうど今夜は聖なる夜なのだから。

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