私たちは許せなかった両親の行動に対して、二つの反応をします。
一つは、その行動をそのままコピーしてしまうこと。もう一つは、それを反面教師にして犠牲的に生きること。
その罠から抜け出すのは、やはり許しの力なのかもしれません。
年始から読み返している名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.許せなかった両親の行動を、今度はあなたがするようになる
私たちが両親を批判したときに、心の奥深いところでは自分を批判したのです。
すると私たちは、次のどちらかの反応をします。
ひとつは、否定した両親のふるまいと同じように自分も行動して、両親がなぜそうしたふるまいに、もともと駆り立てられたのかを理解しようとします。
もうひとつは、両親のふるまいをぐなうために、まったく逆の行動をとります。
両親に対する批判から、それに対抗する犠牲的な役割を生き、大人になってからは自分の子供やパートナーの犠牲になります。
そして皮肉にも、結局は両親を拒絶したその部分に自分もまた、とらわれてしまうのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.41
2.愛し方のすれ違い
こうやって愛してほしかった
私たちは、親との関係において、さまざまな葛藤を抱えます。
往々にしてそれは、「こうやって愛してほしかった」という想いが、満たされなかった痛みとして現れます。
「もっといつも笑顔でいてほしかった」
「自分の好きなように、させてほしかった」
「もっと信頼してほしかった」
などなど、大小さまざまな痛みを抱えながら、成長していきます。
どんな人にとっても、親というのは大きな存在で、幼い子どもにとっては世界のすべてだったりします。
その親から、自分がほしかった形で愛してもらえなかった経験は、「だから私は愛されない」という観念をつくります。
この愛のすれ違いというのは、非常に厄介なものです。
許せなかった両親の行動に対する、二つの反応
今日のテーマが、最も色濃く出る面の一つが、我が子との関係においてだと思います。
先に引用した本書の言葉は、子育ての経験がある方は、深く頷ける話なのではないでしょうか。
私自身も、思い当たる節がありすぎて、書いていて痛いです笑
その許せなかった両親の行動に対して、二つの反応が現れると引用文では語られていますが、まさにその通りです。
①ミイラ取りが、ミイラになる
一つ目は、親がしていた行動を、そのままコピーしてしまうという反応です。
「突然、ヒステリックに怒ってくる親だった。自分の子どもには、いつも穏やかに接しよう」と思っていても、気づけば親と同じように感情的に怒っている自分に気づき、愕然としたり。
あるいは、「親は、いつも家にいなくて寂しかった。我が子と一緒にいる時間を持とう」と思っても、気づけばハードワークに勤しんでしまい、子どもの寝顔しか見ていない生活に愕然としたり。
そんなことは子どもと接している中で、そんなことを感じることは、誰にでもあるのではないでしょうか。
②親を反面教師にして、犠牲的になる
二つ目は、親の行動を反面教師にすることにより、「自分の子供やパートナーの犠牲になる」ことです。
犠牲とは、文字通り自分の大切なものを捧げることですが、それによって自分をどこか牢獄に閉じ込めてしまうようになります。
「明るく振る舞おう」とするのですが、心がそれについてこないので、無理をして笑ってとても疲れてしまう。
「信頼して自由にさせよう」と思うのですが、どこか心の奥底に疑いがあるので疲れる上、相手にはそれが伝わってしまう。
「結局は両親を拒絶したその部分に自分もまた、とらわれてしまう」と書かれていますが、まさにその通りだと感じます。
以上が、許せなかった両親の行動に対する二つの反応ですが、正反対のように見えて、それは双子のようです。
子どもと接していると、本当にこの二つの間で、揺れ動きますよね。
ええ、ほんとに、今日のテーマは思い当たる節がありすぎますね・・・
3.許すことで、自由になる
自分が自由になるために、許す
さて、そんな難しい愛し方のすれ違いに、どう対処したらいいか。
本書のワークでは、「許し」が提案されています。
あなたは何か両親と同じような行動をしていますか。
それとも逆のふるまいをしているでしょうか。
正しいことをしているはずなのに、何かの「役割」から行動していて、何も受けとれずにいるのではありませんか。
そのままだと、いずれ燃えつきてしまいます。
両親の状況を理解し、許そうとすることで、あなたも両親も自由になります。
神の愛の助けをかりて両親を許しましょう。
心の底から、こう言ってみましょう。
「お母さん、神の愛のなかで私はあなたを許します。
お父さん、神の愛のなかで私はあなたを許します」
同上 p.41
「許し」と聞くと、一般的にはどこか犠牲的で、相手のためにするイメージがありますが、ここで言われている「許し」は、その逆です。
自分のために、自分が自由になるためにするのが、心理学でいわれる「許し」です。
そして、その許せなかった相手を許すことができると、自分の心がとても自由になります。
両親の行動をコピーしたり、犠牲的にその反対の行動をしたり、しなくてもすむようになります。
まずは、「感情的に」理解すること
「許し」とは、人間に与えられた最も偉大な力の一つであり、恩恵でもあります。
しかしながら、それだけに「許す」とは、時に困難をともなうものです。
それは、当然ですよね。
もともとが、「許せなかった」両親の行動なのですから。
けれども、必ず許せるようになります。
きれいごとのように聞こえるかもしれませんが、私はそう実感しています。
そのための一歩目は、上に引用した言葉にある通り、「両親の状況を理解」することなのでしょう。
この話のはじまりは、愛し方のすれ違いでした。
自分が愛してほしいように、愛されなかったという経験があった。
では、なぜ両親は、そのように行動したのだろう。
自分の望む愛し方でなかったとしたら、両親はどんな愛し方をしていたのだろう。
それは、カウンセリングの中でも、時おり出てくる質問でもあります。
そのように感情面から想像していくことが、その一歩目になります。
そういった思考をしていくと、許せなかった両親の行動が、少しだけ違った形で見えてきます。
そうしたら、もう「許し」はじめていると言っていいのでしょう。
本書では、そういったことはすっ飛ばして、神の愛の助けをかりる、という手法が提示されていますが、どんな方法でもいいのだと思います。
許せなかった両親の行動をコピーしても、反面教師で犠牲をしても。
どちらでも、最後には許しにいたる道なのですから、きっと大丈夫です。
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